西日本の石棒は、縄文時代中期末に大型のものが伝来し、その後小型化・精製化をとげ、晩期のはじめごろ石刀へと変化し終焉を迎えたと考えられてきた。ところが最近、大阪湾沿岸地方を中心とする地域で突帯文土器にともなって結晶片岩製(泥質片岩・紅簾片岩が多い)の大型粗製石棒が相次いで発見されている。すなわち、縄文時代の最後に再び大型粗製石棒を用いた儀礼がさかんにおこなわれるようになったのである。私の本年度の研究目的は、これらがどこで生産され流通したのかを明らかにし、どのような歴史的意味をもつのか、すなわち「縄文から弥生」との関わりについて考察することにあった。 私の本年度の調査によると、これら石棒は30遺跡137点の出土を確認することができ、分布は大阪湾沿岸地域(兵庫県南部から大阪府堺市付近)を中心とする地域に集中している。なかでも、最も多量の石棒を出土する遺跡は、徳島市三谷遺跡で、20点と異常ともいえるほど多量の結晶片岩製石棒が出土しており、近畿・東部瀬戸内地域に分布する石棒の多くが三谷遺跡をふくむ徳島県の遺跡で生産されたことがほぼ明らかとなった。 問題はなぜ、縄文晩期終末から弥生前期初頭という時期に近畿・東部瀬戸内地域において石棒を用いた儀礼が盛行したのかというところである。 この時期は、ちょうど新しい儀礼・社会のしくみが伝わる時期に相当する。これに敏感に反応して、縄文社会を維持しようとする意識がはたらいた結果、伝統的な儀礼をさかんにおこなうにいたったのではないだろうか。これが、結晶片岩石棒の分布という形で明確に現れたと理解するのである。そしてこれは、近畿・東部瀬戸内地域が、中部瀬戸内以西の地域よりも縄文時代の伝統的な社会・それを維持するシステムを保持しようとする下地があったことを示していると私は考えている。
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