今年度は、奈良県磯城郡田原本町の唐古・鍵遺跡出土の鋳造関係遺物を中心に資料調査をおこない、畿内でも最大級の拠点集落であるこの遺跡で、どのような銅鐸が作られていたのかを解明し、この遺跡での銅鐸生産を、銅鐸分布圏全体の中でどのように評価できるのかを検討した。その結果、この遺跡では外縁付鈕2式段階で河内からの技術導入によって銅鐸生産が始まっており、この段階では一対耳を有する、全高40cm余りの四区袈裟襷文銅鐸が作られていたこと、その後、扁平鈕式新段階には櫟本型の一対耳四区袈裟襷文銅鐸が作られていたことなどが判明した。唐古・鍵遺跡で作られたこれらの銅鐸は、それぞれの段階における主要な銅鐸群ではなく、その製作数も多くない。このことから、唐古・鍵遺跡での銅鐸生産は、一貫して地方的で小規模なものにすぎなかったと評価できた。3世紀後半以後、倭王権の中心地となる大和は、弥生時代からすでに他の地域よりも有力であったとする学説があり、これに関係して弥生後期には唐古・鍵遺跡を中心に近畿式銅鐸が作られたとする見解もある。しかし、今年度の研究からは、近畿式銅鐸、あるいはその成立に中心的な役割を果たした大福型などの銅鐸群が、この遺跡で作られたとの見解は、否定せざるをえない。なお、この研究成果は、今年度に刊行された唐古・鍵遺跡の調査報告書に論文の形で公表した。 また、研究代表者の難波は、調査委員会の委員として、長野県柳遺跡出土の銅鐸の調査と検討に関わっており、柳沢遺跡出土の銅鐸の型式比定や製作地の推定に成果をあげた。
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