いわゆる◎赤不動は漠然と円珍感得の伝承に委ねられ、高野山霊宝館に寄託されずに現在も秘仏として明王院に収蔵されている。しかし住職の好意ある配慮を得て、赤外線・X線等写真撮影を含む詳細な調査を実施し得たことは幸いであった。まず「赤不動」の通称は本図を包む油単の寛永九年(一六三二)寄進銘が、また円珍との結び付きは表具裏の「奉修赤不動明王御尊像/当御本尊者智証大師真筆」と題する寛文八年(一六六八)修理銘が、同寺院に遺るそれぞれ最古の文献史料であることが明らかとなった。次に本図の制作年代について平安中期から鎌倉前期までの諸説が提出されているが、描線が震えたり途切れていたりするなどの写し崩れと思われる要素が多く確認され、さほど溯らせるべきではない。ただ一説に言われる脇侍の裳の面的な補彩は無く、むしろその裳の文様や中尊の肉身に色落ちがある。これは昭和初期の修復時に本図を「洗った」ためであろう。一方新潟・法光院の不動明王二童子像は、珍しい額の三環や反跏である点が赤不動を想起させるが、中尊の肉身は群青の使用でほとんど絹地ごと失われている。赤外線写真によれば背景は全て細かな波で埋められており、必ずしも赤不動と制作の前後関係を論じる必要はあるまい。宝永二年(一七〇五)同寺発行の刷物「荒波鎮不動明王略縁起」には空海入唐時の感得像とされている。 なおこの他に◎黄金剛童子像(三井寺)、〓伝船中湧現観音像(高野山竜光院)、〓善女龍王像(高野山金剛峯寺)を、予定どおり光学的方法をも用いて詳しく実査した。ただ二幅の不動明王三童子五部使者像(◎三井寺本と◎延暦寺本)については、補助金の交付額が計画の四分の三であったため調査の下交渉等までに留め、次の好機を期することとした。
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