Research Abstract |
中東の安全保障に関する合衆国の政策は,アイゼンハワ-政権の成立後まもなく,エジプトを中心とした「中東防衛機構(MEDO)」構想から,トルコからパキスタンに至る諸国の組織化を主眼とした「北辺(Northern Tier)」構想にシフトした。従来の研究においては,「北辺」構想採用後の合衆国のエジプト政策,及びアラブ・イスラエル紛争の解決を目指した「アルファ」計画の遂行と,「北辺」構想との関係は看過される傾向にあった。実際には,従来指摘されていた以上に,「北辺」構想,及びその実現態であったバクダード条約機構に対する合衆国の政策は,エジプトの動向,及び「アルファ」計画の進展と密接に関連していたと言える。合衆国は,「北辺」諸国においては多角的な安全保障機構の結成を促し,一方,地域的大国であるエジプトとの間では合衆国との二国間関係の枠組みを構築することによって,最終的には中東全域を西側陣営に取り込むことを目論んでいた。エジプトのナセルがバクダード条約に嫌悪感を示したこと,及び「アルファ」計画の推進に関心を示していたことから,合衆国は,1955年を通じてバクダード条約との一定の距離を保ち続けた。しかるに,英国がバクダード条件を利用して中東における自らの地位をあからさまに強化しようとしたことに嫌悪感を抱いた合衆国は,1956年初頭以降,ナセルを西側に取り込む展望を持てぬままに,バクダード条約への熱意も失っていく。スエズ危機が終息するまでの過程で,合衆国の中東に対する安全保障政策は,自らへのゲモニ-の下に中東全域を多角的安全保障の枠組みに取り込もうとする構想から,友好国に大してのみ支援を与える選別的な二国間関係の構築へと,徐々に変貌していったと言える。一方,この期間を通じて,対外政策の手段としての物質的「誘因(inducement)」への依存は,その有効性への検証も行われる事なく,常に増大していった。
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