Research Project
Grant-in-Aid for Scientific Research (C)
智〓は法華経至上主義者ではなく、むしろ円教至上主義者であると言いたい。一般的に、中国の教判は、あくまで釈尊在世の説法の整理を目指したものであり、教判の研究対象の空間と時間はインドと釈尊の在世に限定されている。しかし、智〓が釈尊の経教を研究して、自らの時代と地域において、真実の仏教を確立しようとする時には、彼の問題意識は、釈尊在世の教判の整理という問題意識と異なっている。智〓は、釈尊の経教を研究して、すべての大乗経典に共通に説かれている最高の真理である円教の存在を認めていることを重視するならば、智〓は法華経至上主義者であると言うよりも、むしろ円教至上主義者と呼ぶ方が適当である。智〓にとって重要なことは、釈尊の教えの究極である円教を我が身に体得することである。そして、釈尊在世の時の声聞と同じように、智〓在世においてもさまざまな機根の衆生が存在するのであるから、智〓はその機根の多様性にも配慮して、円教を体得する実践法を考案しようとした。そして、智〓の時代の衆生の機根の多様性は、釈尊在世の時とそれと同じであるわけではない。そこで、智〓は、円教を体得する実践法として、円頓止観=摩訶止観を考案したけれども、衆生の機根の多様性に配慮し、漸次止観、不定止観をも考案したのである。また、円頓止観についても、同様に衆生の機根の多様性に配慮して、四種三昧という複数の三昧を考案した。その場合、『法華経』以外の『般舟三昧経』『方等陀羅尼経』『文殊問般若経』などの大乗経典に依拠する三昧が説かれても何ら驚く必要はない。なぜならば、それらの『法華経』以外の諸経の活用は智〓の法華経至上主義とは矛盾するけれども、智〓の円教至上主義とは矛盾しないからである
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