秋田藩における藩士の土地開発と本知高編入に関する研究
Project/Area Number |
19K00971
|
Research Category |
Grant-in-Aid for Scientific Research (C)
|
Allocation Type | Multi-year Fund |
Section | 一般 |
Review Section |
Basic Section 03020:Japanese history-related
|
Research Institution | Akita University |
Principal Investigator |
渡辺 英夫 秋田大学, 名誉教授, 名誉教授 (20191786)
|
Project Period (FY) |
2019-04-01 – 2024-03-31
|
Project Status |
Granted (Fiscal Year 2022)
|
Budget Amount *help |
¥1,560,000 (Direct Cost: ¥1,200,000、Indirect Cost: ¥360,000)
Fiscal Year 2021: ¥390,000 (Direct Cost: ¥300,000、Indirect Cost: ¥90,000)
Fiscal Year 2020: ¥650,000 (Direct Cost: ¥500,000、Indirect Cost: ¥150,000)
Fiscal Year 2019: ¥520,000 (Direct Cost: ¥400,000、Indirect Cost: ¥120,000)
|
Keywords | 検地 / 当高 / 六つ成高 / 土地売買 / 太閤検地 / 由利領検地 / 村替 / 半物成 / 常陸領検地 / 慶長検地帳 / 判持改 / 領知判持 / 給人知行高 / 土地開発 / 高売買 / 借知制度 |
Outline of Research at the Start |
秋田藩では、藩士が藩より認められた土地開発の権利や、開発完了後の開発高を売買し、藩主より給与された本知高が変動するという特有の知行高編成方式を構築した。このような高売買の慣行は、幕末まで続く地方知行制と藩士による土地開発のもとで村方肝煎による蔵入地の年貢徴収法とは異なる給人知行地の年貢徴収方式を生み出した。 本研究は、このような秋田藩における藩士の土地開発とそれを本知高に繰り入れる仕組みについて解明しようとするものである。
|
Outline of Annual Research Achievements |
本科研では、これまでに大館郷土博物館所蔵の下遠家文書を写真撮影により入手しており、その分析から、「下遠家文書に見る佐竹西家陪臣の土地開発と経営について」と仮題を定め、論文として発表する計画であった。だが、論考を進める過程で同じく本科研により収集した国文学研究資料館所蔵の秋田藩直臣中田家文書を併せ分析することにより、武士の土地経営がより明らかになり、それを掌握する秋田藩の体制が、『梅津政景日記』により初代藩主佐竹義宣の治世下において既に形作られていた様子も見えてきた。 これにより、当初の計画を変更し、より多くの武家文書に村方文書も絡ませながら分析することにした。大館郷土博物館には下遠家文書以外にも大館城代で佐竹西家を称する小場家文書をはじめとして、秋田藩直臣根本家文書、小場家家中の秋田藩陪臣小高根家文書など複数の武家文書が保管されるだけでなく、二ツ屋村相馬家文書や早口村高坂家文書、二井田村一関家文書などの村方文書も多数収蔵されている。これらの内、一関家文書は一部が国文学研究資料館にも収蔵されるが、まだ相当数の古文書が未整理のまま同家に継承されていることがわかった。そこで先ずは同館が保管する主要な文書を写真撮影により収集し、分析に着手した。 また、秋田藩特有の高把握方式である「当高」に関しては、佐竹義宣の指示により梅津政景の手によって施行された亀田藩検地からその成り立ちについて考えることができるが、この検地結果を反映した史料が『本荘市史 史料編Ⅲ』に収録されるNo.241寛永2年(1625)8月24日「村高免定之目録」(小川文書、岩城町農林業業資料館収蔵)である。そこで、その後の市町村合併により現在、由利本荘市の亀田城佐藤八十八美術館に収蔵される同文書の原典を調査し写真撮影により画像データを収集した。
|
Current Status of Research Progress |
Current Status of Research Progress
3: Progress in research has been slightly delayed.
Reason
これまでに収集した史料の全てを解読し切れてはいないが、分析の過程でおおよそ次の事態を展望出来るようになった。 秋田藩は田畑とそこの年貢負担者である耕作農民をセットで把握し、耕作地ごとにその耕作農民から個々に年貢を徴収する体制を確立していた。その結果、農民間の土地売買は禁止されず、売買関係が村の肝煎へ届出られると、肝煎は土地台帳に当たる検地帳を修正し、それにより土地移動の実態は正確に掌握され管理された。検地帳の修正は年1回、毎年春に限られ、張り紙により改められた。肝煎はこの変更を藩役所および当該農地の支配者たる藩士に通知し、藩士はそれに応じて年貢徴収者を改めたので、支障なく年貢を徴収することが出来た。 この方式は、幕府が基本とした田畑永代売買禁止令に反し、年貢村請制の原則にも合致しない。こうした秋田藩独自の土地把握方式が生み出された背景には、幕府から新領地秋田の領知高も示されないまま常陸から移った武士の多くが、自ら土地を開発し、切り開いたその土地に農民を入植させ、その農民個々から直接年貢を徴収したことに起因すると考えられる。 藩は藩士の土地開発を奨励し、藩士が切り開いた土地でありながら、藩主はその土地の支配権を認め、本領安堵した。こうして、藩主が藩士に土地を支給したかの如き関係を創出した。この土地支配権を知行といい、その大きさは知行高で表されたが、その高は秋田藩特有のある変換を施された数値だった。以上を展望するに至ったが、しかしまだ詰めなければならない課題が残されている。
|
Strategy for Future Research Activity |
今年度中に残された課題は大きく二つある。まずその一つが、藩士が切り開いた土地を藩士の本領として安堵する方式の解明である。一般にこれを開知行あるいは高結びなどと称し、近世初期の藩政確立期には他藩においても確認できる事象だが、秋田藩では幕末に至るまで、近世を通して繰り返し施行された。藩主が藩士に与える知行安堵状を秋田藩では御判紙といい、この御判紙を書き改め、新規の安堵状を発給することにより、藩士の開発高が知行高に繰り入れられた。これを御判紙書替といい、この一連の方式を解明しなければならない。 そしてもう一つの課題が、この御判紙に記される知行高が示す意味を明確にする点である。これは検地によって得られる単純な数値ではなかった。土地開発の経緯は開発地ごとに異なっており、それに応じて開発主体の武士と、そこに入植した農民の関係は違っていたし、勿論、常陸から移住した直後に藩主から与えられた知行地での農民との関係とも違っていた。それらの違いは、その土地の収穫量に占める年貢量の割合として、すなわち年貢率に反映され、それに基づく高の大きさに表された。つまり、開発開始から完了するまで、開発地の知行権が公認されるまでの期間は、田畑一筆ごとに高の持つ意味が違っていた。さらに開発に当たった武士の中には、資金繰りに窮し開発の途中でその土地を他の藩士に売却する者もいて、土地をめぐる関係はかなり複雑だった。 御判紙書替に当たり、こうした性質の異なる高をそのまま用いるわけにはいかず、性質を均質にする必要があった。こうして操作され、創出された高が秋田藩特有の当高であり、その内実を明らかにすることが、いま取り組むべき課題となっている。
|
Report
(4 results)
Research Products
(2 results)