Project/Area Number |
23K01565
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Research Category |
Grant-in-Aid for Scientific Research (C)
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Allocation Type | Multi-year Fund |
Section | 一般 |
Review Section |
Basic Section 07080:Business administration-related
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Research Institution | Toyo University |
Principal Investigator |
幸田 浩文 東洋大学, 現代社会総合研究所, 客員研究員 (60178217)
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Project Period (FY) |
2023-04-01 – 2026-03-31
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Project Status |
Granted (Fiscal Year 2023)
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Budget Amount *help |
¥3,770,000 (Direct Cost: ¥2,900,000、Indirect Cost: ¥870,000)
Fiscal Year 2025: ¥1,430,000 (Direct Cost: ¥1,100,000、Indirect Cost: ¥330,000)
Fiscal Year 2024: ¥1,040,000 (Direct Cost: ¥800,000、Indirect Cost: ¥240,000)
Fiscal Year 2023: ¥1,300,000 (Direct Cost: ¥1,000,000、Indirect Cost: ¥300,000)
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Keywords | 明治期 / 富山売薬 / 広貫堂 / 組織変遷 / 医薬品製造業者 / 家内制手工業 / 海外への進出・事業展開 / 有効無害主義 / 配置薬産業 / 医薬品産業 / 百年(長寿)企業 / 日本五大売薬地域 / 地場産業 |
Outline of Research at the Start |
本研究では、独特な経営理念・経営組織形態・流通システムにより、越中富山商人、大和商人、近江日野商人、田代商人、備中商人、伊佐商人、越後商人が「地域経営圏」を確立してきた背景・過程を解明する。具体的な研究項目は、①当該地域で売薬業が生まれた背景・過程に関する文献研究・実態調査、②斯業を今日まで維持・成長させてきた各地域における長寿製薬企業の原動力の解明、③末裔の売薬(製薬)企業の経営理念・流通システムの比較研究、そして④代表的製薬・売薬企業の経営理念・手法・販売・流通システムを比較考量し、かつ事業承継・後継者育成問題とその解決策を調べることによる、長寿・百(100年)企業の最低必要条件・要素の解明。
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Outline of Annual Research Achievements |
われわれは、これまで江戸期中頃以降の富山売薬(富山県)と、他の売薬地域(近江日野-滋賀県、大和-奈良県、田代-佐賀県、備中-岡山県、伊佐-山口県)との行商圏での競合関係について論じてきた。しかし明治期以降、近江日野・田代・備中・伊佐売薬は次第に衰退していった。とはいえ、四大売薬地域の富山県では売薬(配置薬)の製造販売を主力とする「株式会社広貫堂」、奈良県では和漢薬(三光丸)専門の「株式会社三光丸」、佐賀県では鎮痛消炎剤を主力とする「久光製薬株式会社」、滋賀県では代表的和漢薬(正野萬病感應丸・虔修六神丸)を取り扱う「日野薬品工業株式会社」などが、業種あるいは業態を変え営業を継続している。つまり四大売薬地域は、明治期の政府の売薬(和漢薬)から西洋薬(以下、洋薬)への転換を目的とする薬事法制の下で、売薬への洋薬の導入、和漢薬の専業化、専門薬剤への特化などさまざまな対応策を講じ現在に至っている。 とくにわれわれの富山売薬に関する研究では、独立自営の売薬業者(行商人)が結合し、次々と異なる組織形態に変化することで、厳しい薬事法制に柔軟に対応し、重税の緩和・回避に努めたこと、またその象徴的存在が広貫堂であったことが明らかにした。厳しい環境の変化に進取の精神をもって解決策を模索する姿勢こそが、富山売薬が今日まで医薬品製造業界として生き残ることができた原動力なのである。 そこで2023年度には、明治期における富山売薬を代表する「広貫堂」を取り上げ、主に、(1) 明治期における家内制手工業による製薬過程、(2) 売薬への洋薬の受入態勢と業容の拡大、(3) さまざまな薬事法制(売薬の取締と課税)への対応策と企業形態の変遷、(4) 海外への売薬進出と事業展開、そして(5) 「有効無害主義」への対策の萌芽について明らかにした。
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Current Status of Research Progress |
Current Status of Research Progress
2: Research has progressed on the whole more than it was originally planned.
Reason
2023年度には明治期における富山売薬を代表する「広貫堂」を取り上げ、以下の5つの課題について明らかにすることができたことをもって、当初の計画予定おおむね順調に進展したと考える。 (1) 明治期における家内制手工業による製薬過程-明治期中頃まで扇型製丸器が丸薬の成型に用いられていたが、新たに手動式製丸器が考案されたが、明治期の生産面は家内制手工業から工場制手工業に留まっていたこと。(2) 売薬への洋薬の受入態勢について-富山売薬における売薬の製法は技術的にすでに一定の水準で確立されており、売薬の効能にも知見の蓄積があり和漢薬での継続的営業が見込めず製薬面で可能であれば、富山売薬は洋薬への転換にはそれほどの抵抗感を抱かなかったこと。(3) さまざまな薬事法制(売薬の取締と課税)への対応策と企業形態の変遷-富山売薬は、売薬に対する取締・重税政策に呼応した法整備に対して、売薬結社の設立・解散、新生「広貫堂」の誕生、「株式会社広貫堂」に向けての制度整備、そして株式会社の設立といった企業形態を変遷させることで、その善後・対応策に腐心したこと。(4) 海外への売薬進出と事業展開-広貫堂は最初にハワイへの輸出を皮切り、中国の北京をはじめ主要都市におよそ20の営業所を開設、さらに朝鮮半島、東南アジア諸国(シンガポール・タイ・ベトナム・マレーシアなど)にも事業展開するなど海外進出を果たしたこと。またハワイ、中国(清国)・朝鮮半島・東南アジアに加え、満洲・米国(本土)・インドにまで販路を拡大こと。(5) 「有効無害主義」への対策の萌芽-明治42年(1909)4月14日の貴族院分科会で政府による強硬な売薬(和漢薬)排除行政に対する妥協策である「無害無効主義」が否定された。この医薬品に対する「有効無害主義」を認める回答が内務省より通告され、次第に政府の方針もそれに沿ったものになっていったこと。
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Strategy for Future Research Activity |
2023年度の研究では、明治期の「広貫堂」について、(1) 明治期における家内制手工業による製薬過程、(2) 売薬への洋薬の受入態勢と業容の拡大、(3) さまざまな薬事法制(売薬の取締と課税)への対応策と企業形態の変遷、(4) 海外への売薬進出と事業展開、そして(5) 「有効無害主義」への対策の萌芽について取り上げた。明治期には矢継ぎ早に出され税制面と生産面に対する法的規制などの困難を克服するため、広貫堂は組織態勢を変えることで生き残ってきた。 しかし、医薬品に対する「有効無害主義」を認める回答が内務省より通告され、次第に政府の方針もそれに沿ったものになっていった。これに呼応するかのように、明治43年(1910)3月24日、「改正売薬法」が公布、翌年施行された。これにより、先年(明治38年)の売薬営業税の事項が削除され、新たに定価1割の「売薬印紙税」と薬剤1方毎に1年間製造高の定価総額に応じた「売薬営業税」が課せられることになった。こうして政府の売薬に対する方針は「無害無効主義」から「有効無害主義」へと舵が切られた。やがて本格的な有効無害主義を取り入れた「売薬法」が定められるのは、大正3年(1914)のことである。 大正3年(1914)、売薬規則が廃止となり「売薬法」が新たに制定され、売薬業者は自らが薬剤師の資格を取得するか、専任の薬剤師を雇用するかのいずれかを選択せざるを得なくなる。すなわち法人企業は、丸薬の生産において請負制の丸薬師の雇用形態が見直されることになった。 このように、広貫堂(ならびに富山売薬)は、大正期に入ると3年の「売薬法」による薬剤師の雇用の義務化、さらには大正12 年(1923)の税制改正を切っ掛けに「薬剤統一」が問題化する。したがって2024年度は、こうした法制面の変化に大正期以降の広貫堂(ならびに富山売薬)の史的展開を考察することが必要となる。
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