Research Abstract |
パスカルの三秩序の思想にも明らかなように, かれの宗教観を支える根本の概念はいうまでもなく「心情」であるが, しかし決して理性の働きが宗教において認められていないのではない. むしろ, 理性の最後の一歩は理性をこえるところにあるといわれている. 理性は決して心情と無縁なるものではない. この両者の関係を明確にとらえていないところに, これまでのパスカル論がキリスト者パスカルと科学者パスカルとを別個の存在として捉えて, あるいは両者を殊更に対立させたり, あるいは逆にその対立をぼかしたりする感があった. 両者の関係を公平に捉えようとした20世紀前半のパスカル研究でさえ, やはり両者を別個のものとする観点を依然として脱却していない観がある. じじつ, 20世紀フランスの最高の詩人といわれたヴァレリーでさえ, こうした観点を色こく残している. 本研究はまずこのヴァレリーのパスカル論を徹底的に分析して, かれのパスカル論がどうしてそのようなものとならざるをえなかったかを明らかにした. こうしたパスカル論の分析から明らかになったことは, 根本的にはパスカルの科学に働いている理性がかれの宗教において働いている理性とが別のものであると考えられている点にあった. そこで次にパスカルの理性が宗教においていかに働いているのかを探究した. 元来, パスカルにおいては, 理性の面からいうと神は無限なるものと考えられている. ところが無限なるものという概念は, 実は単に宗教の領域に限られるものではない. 1654年の決定的回心を経てキリスト教に身を投ずる以前においても, 〓学者あるいは科学者としてのパスカルは様々の仕方で無限なるものに遭遇している. そこで, パスカルを内面的に統一する観点を確立するために, 無限を捉える理性の科学的操作を解明することを通じて, かれの宗教における無限ととかれの科学における無限とがどのような関係にあるのかを究明した.
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