Research Abstract |
東京における約100年間の〈貧困〉分布の時系列的な変化をたどるために, まず〈貧困〉の対象を, 戦後の「被保護世帯」と戦前の「要保護世帯」の性格にできるだけ接続可能な形に調整した. そのため明治40年以前の数値は大幅に精度が低下するけれども, 東京の行政区域レベルの〈貧困〉分布の変化の概要は, 以下の通りである. まず, 大正12年までは, 〈貧困〉の在り方が「貧民窟」に代表される貧困「地区」として, 都市社会一般には必ずしも連続しない形で集住して分布しており, それらの「地区」の分布は, 旧神田, 日本橋, 京橋, 芝の中心4区から, 次第に「の」の字形に拡大して, 関東大震災の直前には本所, 深川の2区へ集中する蛍光がうかがえた. 昭和に入ると, 〈貧困〉分布そのものがそれまでの集住地区から都市の「地域」の中にそれぞれ分散してゆくことになる. その結果, 都市社会に分散して居住する〈貧困〉世帯が集積した場所が, 「貧困地帯」あるいは「貧困地域」と把握されるようになり, このような「地帯」としての捉え方は, 「階層」と把握されるようになり, このような「地帯」としての捉え方は, 「階層」分布ともあいまって, 例えば「江東ベルト地帯」という形で最近まで持続された. 具体的にみると, 昭和戦前期には, 分散した〈貧困〉分布が次第に荒川放水路の流域に集積してゆく傾向を示し, 戦後この傾向が一度拡散するが, 再び昭和30年代前後から, 江東地帯に〈貧困〉分布が集積して, 昭和40年代半ばには, ほぼ集積地帯の形状が固定化したと考えられる. とりわけ, 昭和50年代に入ると, 〈貧困〉対象の設定そのものを, 「被保護世帯」にとどまらず, 高齢単独世帯や木賃アパート居住者, さらには外国人居住者等の視点をもとり入れて調整することが必要とされる. 社会福祉施設は, 大正期には〈貧困〉分布と強い相関を示したが, やがて施設数では相関が弱まり, 特に高度成長期以後になると, 施設の遠隔化もあって相関を見出しがたくなる.
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