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¥1,200,000 (Direct Cost: ¥1,200,000)
Fiscal Year 1987: ¥1,200,000 (Direct Cost: ¥1,200,000)
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Research Abstract |
総裁政府期, アッシニア紙幣の価値の著しい下落にもかかわらず, その発行が1796年初まで続けられたのは, 紙幣に代わる政府の支払手段がなく, 強制公債による正貸調達もはかばかしくなかったためである. 額面価値の8〜9%まで下落したアッシニアは幾度目かの代替処置と引替えに廃棄されるが, その直前から1775年設立の割引銀行の取締役を中心に国立銀行案が練られていた. 当時, 総裁政治・議会の中では, 共和左派の唱導する累進的強制課税・アッシニア再建路線と, 共和右派および財務担当行政官クラスの附加税・間接税復活・銀行家資金の糾合を求める路線が対立していた. やがてナポレオンのイタリア戦役での成果が伝えられると, 後者のグループはシェイエズを介してナポレオンに接近する姿勢を示し, イタリアからの財宝を基盤に国立銀行案を具体化させる. 1797年9月のフリュクチドール・クーデタ以後, 独裁色を強めた総裁政府は, ジャコバンの退出をも阻んで(1798年5月・フロレアールのクーデタ)租税財政政策の道を一本化した. すなわち, 共和左派から共和中道派の分出と共和右派との連携によって国立銀行設立の政治的基盤ができ上る. 統領政府発足後, 国立銀行とそれによって支えられる国庫体制が樹立されるが, これらを担ったのは旧フィナンシエの生き残り銀行家層, 首席事務官層, 財務・税務部局長クラスの者であり, 絶対王政末期に一定の地歩を築いていた者であった. 統領制・帝制期を通じ経済は1805年秋迄の景気上昇, 1806・07年の停滞, 1807年夏から1810年秋までの再上昇, 1810年冬〜1815年の不振という四局面にわけられる. このうち低滞局面は, 信用の欠乏による通貨の混乱, 財政危機と工業融資の低迷が指摘でき, 国立銀行は国庫からのたえざる資金調達の要求にさらされていた. ナポレオン期は, 金融・財政の機構・制度面では後続史への遺産を残したが, なおその成果を十分享受しえた時代でなかった.
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