Research Abstract |
本科研費の交付が遅く, 史料・研究図書の収書に多くの時間が割かれたものの, 研究対象の分析・整理によって以下のような知見と展望を得た. ボヘミアは封建的土地所有者たるグーツヘルガマリア・テレジア, ヨーゼフ2世以来のウィーン政府による再三の農民解放政策に頑強に抵抗したためにこの地域の農民解放は全体として19世紀中葉の市民革命を待たねばならなかった. だがグーツヘルの中には西欧市場の急速な拡大に呼応して農業技術者の育成・西欧派遣, 新農法の導入, 先進農業機械の使用等により生産の飛躍を図る者もいた. 北ボヘミアのジェチーンDecin(独:Tetschen)に広大な所領を有するトゥーン家は近代的経営の障害である賦役労働の低生産性を克服し, 来るべき時代に素早く適応したグーツヘルの典型であった. ここでは1820年頃にはすでに三圃式から輸作経営への転換が図られ, 農民解放も逸速く実施された. 例えば当該所領全体21875haのうち6000haが農民に解放され, 1823-48年に手賦役の27045日, 畜役賦役の5805日が農民に償却された. 1840年代に古いボヘミアの歴史的権利(国法)を楯にウィーン政府の中央集権化に反対した貴族のいわゆる「シュテンデ的抵抗」とトゥーンが一線を画したのも近代的経営によって封建制の殻を打ち破らんとした貴族の姿勢の表れを見てとれる. こうした背景には当該所領地が西欧・世界市場に開かれているエルベ川に臨み, しかもザクセンに境を接し, 西欧ことにドイツとの経済的・文化的結び付きが強かったその地理的位置があった. さらにトゥーン家史の調査で明らかになったことだが, 伝統的な反中央集権的自立の精神が漲るこの地域は改革カトリック派の中心ライトメリッツ司教区に属し, 一方では啓蒙的ヨーゼフ主義が領内に深く浸透していた馬も農民解放思想の形成にとって重要な要因となった. この思想状況を農民解放過程の詳細な追究とからめて分析するのは次の課題となる.
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