Research Abstract |
1.18世紀のいわゆる片務主義外交後期における国力の低下したトルコ外交の大きな特色は, これまでと違って第三国に調停を依頼して講和交渉を進めたことである. 従って, 外交上孤立した場合にはトルコは極めて不利な講和条約の締結を余儀なくされた. そのもっとも典型的な例が, 1774年にロシアとの間に結ばれたキュチュク・カイナルジャ条約である. 2.1774年条約がロシアに対して幅広い権利を与えたことは周知の事実だが, これらの権利の多くはすでに, たとえば前回の露土戦争のさいにロシア側から要求されていた. しかし, 結局フランス大使の反対にあい, ベオグラード条約(1739)ではロシアの要求はほとんど受け入れられなかったのである. 3.1774年条約の公用語はイタリア語, ロシア語, オスマン・トルコ語であるにもかかわらず従来の多くの研究者は, 仏語訳もしくは英語訳の条約文を資料として研究してきた傾向がある. これら三種類の公用語で書かれた条約文を比較検討し, さらに訳文との相違を指摘したのはR・H・デービソンである. 4.1774年条約がロシアにトルコ領内のギリシア正教徒の保護権を与えたとする通説について, 私はデービソンの研究を参考にしつつ, 三種類の条約文を実際に比較検討した結果, ロシアには限られた保護権のみが与えられたことを実証した. 5.なぜ通説のような拡大解釈が生まれたのか, またこの限られた保護権のもつ意義は何か, さらにカルロヴィッツ及びイスタンブル条約でトルコ側へ国家主権の概念が初めて知らされたにもかかわらず, 1774年条約でトルコ代表は条件付きでクリミア・カン国の独立を承認したといわれているが, かれらは国家の独立を一体どのように理解していたのか, 今後これらの問題を明らかにして行く予定である.
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