Publicly Offered Research
Grant-in-Aid for Transformative Research Areas (A)
本研究はモンゴル高原と中国の戦車導入に密接に関係するアルタイ山脈の東西地域におけるウマ利用の本格化の解明を目的とする。これまでの研究では、草原地帯中部から東部の地域性を考慮せず、文化や類型内の様相を均一的にとらえていた。しかし、実際には頭骨埋納/副葬などの風習においても地域差があり、それがアルタイ山脈以東の戦車拡散=ウマの本格利用に影響している可能性が高い。そこで、本研究では①アルタイ山脈東西地域におけるウマ頭骨埋納・副葬の南北差、②戦車図像と馬具の集成、③青銅器の系統把握というサブテーマを設定し、これらの考察を通じて包括的に、アルタイ山脈東西地域の地域性と交流関係を明らかにする。
本年度は5月にモンゴルの踏査を行い、大規模ヘレクスル複合遺跡が集中する地点の検討を行った。千頭を超える馬埋納遺構(石堆)が伴うヘレクスルは、モンゴル中西部のハヌイ川がその中心であることがわかっているが、踏査によってオルホン川流域にもそうしたヘレクスルが分布することを確認した。そして、8月にオルホン川流域の大規模ヘレクスル複合遺跡であるヒルギスーリーン・グデン(KHG)の発掘を行った。KHGは2基の大型ヘレクスル(1号、3号)、2基の中・小型ヘレクスル(2号、4号)、祭祀空間で構成される。3号を除くヘレクスル、祭祀空間の石堆を発掘したところ、全ての石堆から馬の頭骨と頸骨が出土した。これまでもこうした組み合わせが出土していたが、今回、遺構を精査しながら発掘したところ、土坑のスペースから考えて、頭骨及び頸骨は、骨化したのちに埋納されたことがわかった。これによって、肉を捧げたと推定される動物供犠とは異なる系譜の祭祀であったことが確定した。年代は、祭祀空間が前10世紀前半、1号が前10世紀後半、2号が前9世紀前半、4号が前8世紀頃である。一つのヘレクスルの馬埋納は約50年間行われるという研究があることから、祭祀が終了した段階で新たなヘレクスルが構築された可能性が推定された。次にヘレクスルの頭骨埋納の拡散ルートを検討するため、カザフスタンの踏査を行った。アルマトイで研究協力者とともに踏査を行い、カザフスタン中央部から北部には頭骨埋納がみられるが、東部や南部では全身埋納を基本とし、頭部のみの利用はないことがわかった。草原地帯西部の頭骨埋納の古い事例は、これまでの研究で北側に寄ることを明らかにしているため、ヘレクスルの頭骨埋納もアルタイ山脈の北側から入ってきた可能性が高くなったといえる。今後、戦車の導入も含めて、どのような文化拡散があったのかを明らかにしていきたい。
1: Research has progressed more than it was originally planned.
今年度も2022年度に続き、モンゴル北部から中西部の踏査を行い、多くのヘレクスルの測量を立地(構築環境)の検討とともに行うことができた。そして、今回の踏査と既存の研究でわかっている大規模ヘレクスル複合遺跡の遺跡立地を検討した結果、オルホン川流域から南北に抜けるルートが重要であったという仮説を得ることができた。オルホン川とタミル川流域は青銅器時代以降も、匈奴の土城、王墓群が集中する地域であり、通時的に騎馬遊牧民にとって中心的な地域である。漠北では、東西方向に流れるセレンゲ川やオルホン川といった主要河川は水量が多く、川幅のある程度狭まった地域でしか渡河できない。冬の乾季には移動が可能になる場合もあるが、漠北の寒さは極めて厳しく、その季節、遊牧民は基本的に谷奥にひっこんで動けないため、雨季でも渡河できる南北ルートの確保が必要であった。つまり、上流近くの丘陵に挟まれた河川幅がせばまったポイントでの渡河である。こうした様相を総合的に考えて、当時の人々は「直線的な南北の河川沿いルート」と「東西に流れる大河川を渡河する丘陵ルート」の組み合わせによって長距離の移動を行っていたと推定された。青銅器時代の場合、南北交流を示すものとして青銅器が挙げられ、実際、この時期は、ミヌシンスク盆地と長城地帯で共通する青銅器が出土するようになる。青銅器を生産するための原料は、かなりの重量になり、馬や牛が曳くワゴンでの移動が前提になる。そのため、前述した河川の渡河は、水量の多いところでは困難になり、やはり、丘陵を抜けるルートを必要としていたことがわかる。以上のような内容について、学術変革領域のシンポジウムで発表を行っており、逐次、成果報告を進めている。
2024年度はこれまでの公募研究の内容を統合する必要があり、発掘調査で得られた馬頭骨資料の炭素窒素同位体分析、ストロンチウム同位体分析を行うことで、ヘレクスルの馬がどのような脈絡、埋納された地にもたらされたのかを明らかにしたいと考えている。併行して進めている馬具の導入の様相をみると、モンゴル高原で出土する馬具はスキト・シベリア地平の諸文化の由来するスキタイ系馬具である。それまでモンゴル高原では、定型的な馬具が出土せず、戦車に伴うはずの銜留もみられない。カザフスタン東部からモンゴルアルタイにかけては、岩絵で戦車が描かれ、少なくとも前2千年紀後半にはそれらが導入されている。そのため、戦車を構成する馬具セットがどの地域で抜け落ちたのかを知ることが、モンゴル高原の戦車導入を考える上で重要になる。対照的に中国では殷代から銜留が伴っており、中には西アジアと共通する青銅製の突起付銜留もみられる。つまり、モンゴル高原と中国では、戦車の導入経路、おそらく家畜化された馬の導入経路にも差異があったことが予想される。そのため、2024年度は、上述のヘレクスルに関わる馬の分析以外にも、戦車の導入ルートを明らかにしたい。それによって、モンゴル高原と中国の社会の差異がより明確になるといえる。異なる社会の交流と競合が、当時の中国社会に刺激を与えた可能性は高い。このことは、本研究が属する学術変革領域の全体テーマである中国文明の形成にも寄与できるものである。
All 2024 2023 Other
All Int'l Joint Research (3 results) Journal Article (2 results) (of which Int'l Joint Research: 1 results, Peer Reviewed: 1 results, Open Access: 1 results) Presentation (4 results) (of which Int'l Joint Research: 2 results) Book (1 results)
埼玉大学紀要. 教養学部
Volume: 59 Issue: 1 Pages: 75-97
10.24561/0002000180
https://sucra.repo.nii.ac.jp/records/2000180
古代武器研究会
Volume: 18 Pages: 5-20