Research Abstract |
今日の地域は「都市化社会」「混住化社会」などと呼ばれ,地域社会と呼ぶことをためらうほどの激変を続けている。これはまさに危機であり,この様な時期にこそ「原点」を確めることが必要である。それには,今日にとって直接の過去を顧みる必要がある。このために表記の課題を設けた。そして、1,明治前期の中信地方の集落神社の全ての存在形態,例えば社号,所在地,創建由来,社格,祭神,例祭日,祭祀組織,社有戝産,その他を確めること。2,明治期に神社と神祠その他に分けられ,後者は集落内の適地に集められ,社格をもつ神社の摂・末社とされるなど,いわゆる再編成がなされたのであるが,それらは明治直前にいかなる存在形態をもち,いかに位置づけられ,どのように分布していたかを,可能なかぎり確めること。3,中信地方では明治前期に既に近隣数か村ごとに合併し新行政村の行政区への編成がなされたが,この行政区はそれぞれの成立の前史を見ると,親郷である藩制村,新田村である藩制村,枝郷である組,その他などに分けることができるが,それぞれと集落神社の存在形態がいかに関連するかを確めることなどを中心に調査を進めた。このために,まず,「明治十二年 神社明細帳」をとりあげ,長野県中信地方の明治12年(1869)から昭和21年(1946)までの集落神社の動向についての多数の変数からなるデ-タ・ベ-スを作成した。ついで,この動向の初期状態を明らかにするために明治4年の「(筑摩県引継)筑摩郡神社明細帳」によって藩制村と集落神社の関連を捉え,明治11年の「神社取調帳」で補足した。集落水準の調査は木曽郡の旧奈良井村にて行ない,各文書と聞取りによって前記の文書の解読を深めることができた。そして,旧西筑摩郡諸町村を中心に,集落神社の再編過程を明らかにし,さらに,今日にいたるそれら集落神社の存続条件を明らかにする報告をまとめた。
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