1994 Fiscal Year Annual Research Report
Project/Area Number |
06610299
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Research Institution | Hirosaki University |
Principal Investigator |
安野 眞幸 弘前大学, 教養部, 教授 (30110646)
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Keywords | サンパン / ペ-ロン / 倭寇的世界 / 中華街 / 内町 / 外町 / 居留地 |
Research Abstract |
港湾都市の底辺を支えた港湾荷役労働や湾内水上交通に関わった「はしけ」のことを,長崎では中国語で「サンパン」と云うが,それはその溜りが中島川の河口付近で,そこに唐船も多く停泊したことから,日本伝来の「はしけ」を中国風に呼んだと一応は考えられる。また長崎の五月の行事「ペ-ロン」は,通説では近世に中国人が伝え,日本の伝統行事になったものと説明されている。しかし,「ペ-ロン」は,唐人から直接影響を受けにくい長崎湾内の村々や東彼杵半島の海人の村々にも見られることから,東シナ海に共通する風俗で,その背後には海人の国境のない交流の世界「倭寇的世界」が想定され,「サンパン」もこれによるとの解釈も可能である。 一方私の『港市論』の議論が正しいとすれば,ポルトガル人たちは「出島」建設前の長崎においては「内町」の内部に雑居していた。また秀吉の朝鮮出兵の結果,日本に連行された朝鮮人たちは日本各地に集住して「唐人町」を作り,長崎でも「高麗町」を作っている。また一般に,東南アジアその他の地域で華僑の居住域は他と区別され「中華街」の形成される場合も多く,開国後の長崎でも唐人屋敷の地や唐人の倉庫のあった新地は中華街へと変身した。以上の事柄にもかかわらず,鎖国令発布以前において,日本人と中国人との間には我彼の区別が無く,中国人居留地の考えも無く,当然「中華街」も形成されず,唐人は長崎の「内町・外町」に自由に住み,日本人と雑居していた。このような近世初頭長崎の華僑社会のあり方は,中世の「倭寇的世界」の影響下にあるのである。
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