Research Abstract |
宇田川槐園は,宝暦5年12月27日(1756年1月28日)に生れ,寛政9年12月18日(1798年2月3日)に没した。津山藩医として江戸鍛冶橋にあって蘭学研究にあたり,いわゆる宇田川3代の仕事を始めただけでなく,3代の仕事の展望をもち,大まかな計画をたてたと考えられる。本研究は,槐園の遺稿から,このことを実証するとともに,槐園が何故に漢方医から転じて,かくも大きく,かつ適切な計画をたて得たかを明らかにするもので,本年度は,ほぼ予想通り進んでいる。明らかにした事,しつつある事。 (1)宇田川槐園の先祖は,武州足立郡淵江村において医業を開いた宇田川玄中(1708没)である。この人が鍛冶橋宇田川家の祖(一世)で,三世玄隨が津山藩医となり,槐園は五世玄隨である。皆漢方医であった。 玄中の父母,祖父母らの墓を東京都足立区小台の珠明院において確認し,過去帳および『宇田川家記録とつきあわせて系図をつくった。玄中の父の俗名は宇田川三郎兵衞,法号は一渓了無上座,祖父は宇田川庄右衞門,直翁常心居士,いずれも豪農であったと考えられる。しかし,玄中以下は,墓を作った当時は大部分が信士であった。 (2)槐園遺稿の調査方法を次のように進めている。(1)槐園の代表作『西説内科撰要』の十分な解析,(2)槐園の稿本の書かれた時期を年表の中に位置づけ,稿本中の言葉と『内科撰要』の言葉との関係を読む(3)槐園の仕事を,各稿本について解析,内容を6つに分類し,それぞれの系譜を解析,(イ)内科(ロ)薬学(ハ)本草・博物(ニ)物理・化学(ホ)言語(ヘ)絵画・詩歌(4)各系譜について,関連ある他人の仕事を年表に入れ,その内容と,槐園の仕事・言葉との関係を解析する。(5)槐園の言葉と思索を追うために,稲村三伯,宇田川玄真編の蘭和辞書『江戸ハルマ』(槐園が3万語を渡したとされる)と桂川甫周の『和蘭字〓との比較検討を行いつつある。(6)特に本草および,製煉術の言葉を追い,幻の稿本ブランカールトの製煉術の訳書を探索する。現在探索中である。 以上により,表題の掲げた内容の調査解析は,着実に進んでいます。
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