1996 Fiscal Year Annual Research Report
イギリスにおけるパブリック・スクールとエリートの再生産過程の分析
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06801034
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Research Institution | TOKYO METROPOLITAN UNIVERSITY |
Principal Investigator |
大田 直子 東京都立大学, 人文学部, 助教授 (40211792)
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Keywords | イギリス / パブリック・スクール / メリトクラシー / コンプリヘンシブスクール / 1926年規則 / 中等教育 |
Research Abstract |
第一にパブリックスクール出身者たちは、「財産・血統のエリート」かつ「業績のエリート」であるが、最初からそうであったわけではない。19世紀半ばのイ-トン校の現状は悲惨なものであった。これを理由に国家介入を行おうとする勢力に対抗し、自らのオートノミーで活性化を計ろうとしたのが校長会議であった。彼らはオックスブリッジに働きかけ、外部試験制度をフルに活用し、自らの教育水準を維持し、かつ大学入学試験のカリキュラムを準備することによって「業績のエリート」への道を確保した。また帝国主義段階のエリート像でもある男性的(マスクリニティとリーダーシップ)イメージをも作り出すのにも成功し、社会のエリートとして認められた。第二に、他方、国民教育制度を通じて、一般大衆の中から「業績のエリート」をつくりあげようとする動きは、19世紀後半から顕著になったが、この「業績のエリート」は増大しなかった。一部中産階級と労働者階級に存在する反学校文化と、保守党政治家エリートらに見られる執拗なパブリックスクール擁護論があったためである。1926年の基礎教育における国家のカリキュラム統制廃止は、教育の自由を尊重したとして高く評価されるが、基礎教育を軽視した結果である。「業績のエリート」を下から造り上げることは、選抜するための共通のカリキュラムが存在しないため困難となった。第三にこれを救ったのがIQである。第四に、第二次大戦後、11歳時で選抜される三分岐型中等学校制度が導入されたが、グラマ-スクールタイプの学校の絶対数が少なく、多くの中産階級の親から不評を買い、より平等主義的なコンプリヘンシブスクール型に改組されていく。これはメリトクラシー的社会(より平等な社会)に組織しなおすという期待にも答えるものとして考えられてきたが、その評価は定まっていない。当初の計画では本年度に最終報告する予定であったが、今のところ、あまりに不十分で、まとめられない。
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