Research Abstract |
昨年につづき,トクヴィルの共同研究をつづけるとともに,個別課題の研究を進めた。 19世紀後半の明治初期・中期は、ヨーロッパでは近代が成熟し,そこから,ヨーロッパ近代精神の「精髄」を集めたアメリカ合衆国が,ヨーロッパの「理想」を体現する国家として地位を確立しつつあった時代である。つまり,ヨーロッパ型文明とその発展形態である合衆国型文明が分化しつつある時代であった。明治開化期の日本が,この状況にあって,欧米からいかなる摂取を試みたかを判定するのは,後の日本の軌跡を見るうえで重要である。最初期の『特命全権大使-米欧回覧実記』にしめされる欧米把握では,ヨーロッパの中央集権的国民国家型文明より,むしろ,合衆国のしめす連邦的自立と自由にもとづく産業型文明を開化の第一目標に掲げるが,明治10年を境に,ヨーロッパ型国民国家による政治的文明(civilisation politique)を視野の中心におくことになる。さらに,政治形態にあっても,有徳の士の指導に依存するヨーロッパ型「共和政体」が,平等重視,したがって,指導者の交換を重視するアメリカ型民主制よりも,幕藩体制克服を掲げる明治政府には,有効であるとされたのではないかと推察できる。 明治13年(1880年)に肥塚龍によって重訳された,トクヴィルの De la democratie en Amerique(1835)は『自由原論』と題され,「米国共和政事」として8分冊で出版された(ただし Henry Reeve訳 Democracy in Americaの first partの訳のみである)。そこでは,原版である democratie,democracyはことごとく,「共和」と訳され,民主と共和の区別が立てられていない。そのことは,Tocquevilleの原文にしめされた,アメリカ民主主義の本質にいたる,ヨーロッパ政体とはことなる視点に関する考察が翻訳においては,曖味となっている。この曖味さの由来について,今後のさらに考究が必要である。
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