1998 Fiscal Year Annual Research Report
「からだ」についてのイメージ・知の再検討,そしてその再構想の試み
Project/Area Number |
08610045
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Research Institution | Wakayama Medical College |
Principal Investigator |
竹山 重光 和歌山県立医科大学, 教養部, 助教授 (60254520)
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Keywords | からだ / 近代医学 / ハーヴェイ / デカルト |
Research Abstract |
本年度は、近代医学が成立してくる時代における「からだ」イメージ・知の検討作業を主として行った。具体的には、ハーヴェイ(W.Harvey)の著詐Exercitatio anatomica de motu cordis et sanguinis in animalibusの精読である。 この作業を通じて知られたのは、一般に機械論的な生命観の最も早い持ち主とされているハーヴェイが、実に微妙で興味深い位置にあるということである。すなわち、なるほどハーヴェイにおいて、血液や血管から生命は剥奪され、心臓が前面に押し出される。つまり心臓中心主義とも表現できる事態が存する。けれども、それはアリストテレスの伝統である。また、なるほどハーヴェイにおいて、「からだ」に対する機械的な語彙の使用が見られるが、それは決して目立つものではない。デカルトが『人間論』において最初から機械的な構成を想定しているのとは異なる。さらに、こうしたハーヴェイの議論は、デカルトに比べれば、経験的・実験的な性格が強く、その意味では、人間の日常的な経験にも近いものである。われわれの日常的な「からだ」経験との近さという点で言えば、デカルトよりもハーヴェイの方が明らかにより近い。 それにもかかわらず、もし現在われわれがデカルト的な「からだ」イメージを持っているとすれば、その理由は何なのだろうか。おそらくそれは「からだ」の「知性化」ということではないだろうか。 「健康は病気になってからこそありがたみが分かる」とよく言われるが、むしろ、健康は病気になってから存在するのであり、病気でないときには存在しない。われわれはいつのまにか病気というところに立っているからこそ健康を知るのであり、いつのまにか変調というところに立っているからこそ、「からだ」を知るのである。その「変調」というところに、知性化あるいは医学化が現れてくるのである。 なお、ハーヴェイの上記著作の原典版をHTML化する作業が進行中である(本報告書作成時で第八章まで)。次のURLからたどれる。http://netpassport-wc.netpassport.or.jp/〜wkantake/zettel/zettel.html
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