1997 Fiscal Year Annual Research Report
15〜18世紀における中国の首都北京の社会史的研究
Project/Area Number |
09610361
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Research Category |
Grant-in-Aid for Scientific Research (C)
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Research Institution | Yamagata University |
Principal Investigator |
新宮 学 山形大学, 人文学部, 助教授 (30162481)
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Keywords | 北京遷都 / 洪武帝 / 永楽帝 / 南京システム / 北京システム / 国家と社会の乖離 |
Research Abstract |
永楽19年の北京遷都のもつ政治社会史的意義を考えるために、「初期明朝政権の建都問題について」と題する論文を公表した。 論文では、洪武帝晩年の皇太子陝西派遣の目的が洪武帝の北方遷都計画のためであったという通説的理解の誤りを、実録など関連史料によりながら詳細に検討をくわえた。これにより、南京を「京師」に改めた洪武11年以降、洪武帝が一貫して南京を首都とした国家体制を確立しようとしていたことを確認した。この「南京システム」のもとで、北辺に配置された晋王や燕王の軍事的役割は重要となってきたのであり、ここに洪武帝亡き後、靖難の役が引き起こされる理由があった。 以上の理解の立つとき、靖難の役とその後につづく北京遷都のもつ初期明朝史における歴史的意味、すなわち政治の中心と経済の中心を一致させた南京システムから両者を分離させる「北京システム」への改変のもつ重要な意味が明らかとなる。北京民族の台頭により第二次南北分裂の時代を迎えた中国社会は、軍事力にまさる「北」と生産力の「南」というように政治と経済の分離を長期にわたって余儀なくされた。こうした分裂の領域的統一を元朝は成し遂げたが、社会の底辺ではまだ分裂時代の遺産が温存されていた。里甲制の施行とこれを基礎とした夏税・秋糧の徴収は、明朝が元朝より受け継いだ南北一元的支配という課題を解決するためものであった。したがって、南北分裂を最終的に統一した明朝政権が洪武・建文朝の過渡期をへて永楽年間に自ら選択した北京システムは、国家と社会の乖離を特徴とする中国近世社会の枠組みの完成を意味していた。
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