Research Abstract |
本研究は,平成9年度から10年度にかけて,東芝社史編纂資料などの調査を実施し,マイクロフィルム化による資料収集を行った。収集資料は整理・分析中であるが,現在までに明らかになった事実は次のとおりである。 第1に,1920年代からのラジオ放送など無線市場の拡大につれて,真空管市場は拡大したが,特許権が参入障壁となって,東京電気など3社ほどが,真空管製造が可能であった。これに対して,急成長する無線市場の参入障壁は低く,有線通信,真空管など周辺分野からの参入によって,競争は激しかった。とくに,有線通信の日本電気,真空管の東京電気は放送機市場に参入し,価格競争が1930年代半ばまで続けられた。 第2に,放送機市場における競争は,放送機に使われる大型通信管の開発競争でもあった。東京電気と日本電気は,外国技術を導入し,大型通信管の国産化を進めることによって,放送機の受注を有利に展開しようとした。真空管国産化の成否は,無線市場での競争力を大きく左右したのである。 第3に,通信管の国産化では,東京電気が日本電気を一歩リードした。その原因は,1926年に両社が締結した真空管に関する協定であった。この協定は,お互いが持つ真空管特許を尊重するという内容であったが,真空管製造に関しては,東京電気に有利な内容であった。1932年以降,日本電気は通信管の国産化によって,無線市場での競争力を高める戦略を選択した。1920年代の棲み分け的な企業行動から,1930年代には両者間の競争は激しさを増した。ただし,東京電気が基本特許を6つ受信管では1936年まで同社の独占が続いており,真空管市場では,競争的な分野と独占的な分野が並存したのである。
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