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1999 Fiscal Year Annual Research Report

「力石」に関する歴史社会学的研究-力石の衰退に身体の近代化をみる-

Research Project

Project/Area Number 10680038
Research InstitutionKYUSHU UNIVERSITY

Principal Investigator

西村 秀樹  九州大学, 健康科学センター, 助教授 (90180645)

Co-Investigator(Kenkyū-buntansha) 清原 泰治  高知学園短期大学, 講師 (00225096)
岡田 守方  高知大学, 教育学部, 助教授 (60160686)
Keywords力石 / 相撲 / 力比べ / 軍事教練 / 兵士
Research Abstract

今回の調査は、吾川郡池川町を中心に行った。池川町では、楮原(かじはら)地区の愛宕神社と、舟形地区の金毘羅神社の2ケ所で力石の所在を確認できた。その他の地域でも数ケ所で力石らしき石をみつけたが、それらについての明確な聞き取りは不可能であった。楮原地区の愛宕神社には大小2個の力石がある。4人の話者の証言から考察すると、この神社では明治期に力石を用いた力業が行われていた。祭りのときに力石を担ぎ上げたり、二つの石を天秤に担いだりして遊んでいたようだ。しかし、大正期以降は相撲や剣道に若者たちの関心が移り、力石はあまり重要な力比べの道具ではなくなっていった。楮原地区は、もともと力石は年中行事として行われていたに過ぎず、相撲が盛んな地区であった。それゆえに、相撲は永く続いたものの、大正期以後の軍治教練と関連する武道重視の風潮の中で、力石は衰退していったと考えられる。
舟形地区の金毘羅神社には4個の力石が残っている。戦前には3斗、4斗、5斗、6斗、8斗の計5個の力石があったらしい。ここでも、力石は祭りの余興として、あるいは村の奉仕作業でみんなが集まったときの力自慢として行われていたようであるが、力比べのための一定のルールがあった。力石を担ぎ上げ、神社への石段を上がり、隣りのお堂まで10メートルほど移動し、お堂の階段を下ってもとの場所に石を戻すという競技方法である。担ぎ上げるだけでなく、それを抱えたまま移動することが求められた。また、担げない者は「それでは甲種合格できないぞ」「兵隊に行けんぞ」と言ってからかわれたという。通過儀礼としての意味はなかったが、力石を担ぎ上げることに社会的な意味(兵士となるということ)が自然発生的に付与されたことがわかる。それゆえに、戦前を通じて、力石を持ち上げるという力業が継続されていたと考えられる。

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Published: 2001-10-23   Modified: 2016-04-21  

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