1998 Fiscal Year Annual Research Report
一八世紀オランダ都市における救貧活動および移民からみた「衰退」期社会の構造分析
Project/Area Number |
10710180
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Research Institution | Osaka University |
Principal Investigator |
大西 吉之 大阪大学, 文学部, 助手 (80283703)
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Keywords | 社会史 / オランダ / 救貧 |
Research Abstract |
本年度は、18世紀後半におけるロッテルダム市救貧院の若年収容者記録を収集、入力、およびデータベース化した後、救貧行政の実態と特徴の把握に努めた。この作業の中で、従来、貧民向けに特化していたとされる、公的な都市救貧施設が、実は改革派教区民以外の受け入れを許可することがほとんどなく、また退所後の就業についても、市民専用の孤児院収容者のそれとあまり差がないことが判明した。これまで、オランダ都市(院内)救貧制度は、市民=中産層に属する孤児と、それ以外の「都市貧民」とに分化していたとする図式に疑問符がつくこととなるが、これは、具体的には何を意味するのだろうか。第一に「市民・非市民」との区分は、建前としては存在していたとしても、事実上意味を成していなかった、ということが指摘されうる。市民権は、一度付与されればその者が零落しても剥奪されるような規定はなく、またロッテルダムにやってきた富裕層が、必ずしも市民権を得ようとしなかったこともあって、「市民=富裕・中産層」との図式はかなり崩れていたのである。第二に、市民身分による区分に代わって機能していた区分が、宗派-すなわち教区一による分類であったことが注目される。ロッテルダム救貧院が「貧民」むけとして設立した1680年前後の状況とは異なり、一八世紀後半には、孤児院、救貧院ともに改革派教会(プロテスタント)の教区民専用の施設として機能し、その両施設の区分も、「市民」身分の空洞化により、曖昧なものになっていった。一方、カトリックその他の宗派は、独自の救貧活動を公式に許可されると同時に、公的救貧サービスから一部排除されていった。こうした救貧の「宗派化」は、その直接的な要因が宗教にあるにせよ、経済停滞のなか、救貧コストの急増に頭を悩ませていた政治エリートにとって魅力的な方策であったことは間違いない。この流れは、おそらく一九世紀の状況一教会勢力に対し、中央集権的・公的救貧の浸透が進まない-の主たる要因ともなり、「衰退」期が社会のその後に及ぼした影響の大きさを物語っているのであろうが、この仮説はさらなる調査・分析を必要とするだろう。
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