1999 Fiscal Year Annual Research Report
映画館の構造と歴史-近代の本における幻想空間の美術史
Project/Area Number |
11610059
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Research Institution | Kyoto University |
Principal Investigator |
加藤 幹郎 京都大学, 総合人間学部, 助教授 (60185874)
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Keywords | 映画館 / 舞台 / 視線 / 日本映画史 |
Research Abstract |
共著『映画監督 溝口健二』(新曜社1999)所収の「視線の集中砲火」において研究代表者は以下のような映画館と劇場の特異性をめぐる諭攷を公刊した。『残菊物語』(1939)の怪物性、そのただごとではない異様な雰囲気は、その冒頭からわたしたち観客を打ちのめさずにおかない。そこでは舞台のうえで『四谷怪談』が上演されているのだが、さながらテレビによる劇場中継ででもあるかのように、その歌舞伎シークェンスにはそれを見ている(はずの)特定的観客が不在なのである。いやしくも物語映画であるならば、舞台のうえに役者がいる以上、観客席には彼らを見つめている(はずの)特定の観客がいなければならないはずである。演劇や小説とはちがい、それが劇映画である以上、物語は見る者と見られる者とのあいだの視線の緊張関係のなかにしか生まれないはずだからである。それが映画史の約束事というものである。遅くとも1908年末にD・W・グリフィスが「劇場における切り返しショット」というものを完成して以来、映画が舞台を描写するさいには、舞台を見ている者を収めたショットと舞台のうえの見られているもの(パフォーマンス)をとらえたショットを交互に編集するというのが、映画史の一般的約束事であった。一大スペクタクル『国民の創生』(グリフィス1915)でも、リンカーン大統領が暗殺されるフォード劇場のシークェンスは、劇場内にまず観客が特定され(リリアン・ギッシュが席につき)、ついでその観客の観客たるゆえんが示され(彼女がオペラグラスをのぞき)、最後に(彼女によって)見られているもの(舞台のうえで進行している劇)が提示されるという具合に編集される。小津安二郎であれ、当の溝口本人ですら、およそすべての映画作家が舞台というものをそのように再現表象するなかで、ただこのときの溝口健二だけはその長く強固な伝統から離反する。
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