1999 Fiscal Year Annual Research Report
Project/Area Number |
11610060
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Research Institution | Seijo University |
Principal Investigator |
東山 健吾 成城大学, 文芸学部, 教授 (70119361)
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Co-Investigator(Kenkyū-buntansha) |
小澤 正人 成城大学, 短期大学部, 助教授 (00257205)
八木 春生 筑波大学, 芸術学系, 講師 (90261792)
清水 眞澄 成城大学, 短期大学部, 教授 (30124514)
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Keywords | 中国南北朝時代 / 仏教美術史 / 石窟 / 中国河西地方 |
Research Abstract |
初年度の研究は(1)資料の整理・収集、(2)石窟編年の確立を中心におこなった。 資料の整理・収集については、河西地域のみでなく、中国西北地域を対象として資料の収集と整理につとめた。今回対象として石窟は、河西地区の昌馬石窟群、文殊山石窟前山千仏洞・後山千仏洞、金塔寺石窟東・西窟、馬蹄寺石窟、天悌山石窟、童子寺石窟であり、比較のため敦煌莫高窟、永靖炳霊寺石窟、天水麦積山石窟と隴東の諸石窟についても同様の作業をおこなった。そしてこれまで公開されている資料と東山健吾の研究成果を整理し、電子データ化をおこない、造営年代などについて考察をおこなった。 編年については以下の通りである。造営が五胡十六国時代までに遡りうるのは、天悌山石窟第1及び第4窟のみであり、金塔路石窟東・西窟や文殊山石窟前山千仏洞・後山千仏洞、そして馬蹄寺石窟などは、雲岡石窟第二期諸窟の中でも第9・10窟とほぼ併行する時期(481年頃)に開かれたと結論された。基本的にはキジルなど西方からの影響は、河西地区を経由して雲岡石窟へと流入してきたと考えられるが、上記の石窟には雲岡石窟第9・10からの影響も認められることから、河西石窟の仏教美術を考察するには、西方や河西地区の伝統だけでは十分でないことが理解される。439年に太武帝によって河西地区の住民が十万人余も首都大同へと徙民されて以来、河西の地には見るべき文化が育成しなかったとされる説がこれまで有力であったが、今回の考察結果から、必ずしも河西地区の仏教文化が根絶されたわけでないことが知られた。なお昌馬石窟群の童子寺石窟については、資料が極端に少なく、今の時点ではっきりとした見解は示すことはできないが、おそらく金塔寺東・西窟などとあまり造営時期は変わらないと推測される。
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