2000 Fiscal Year Annual Research Report
ニューヨーク都市建築史に関する基盤的研究-不動産・社会・メディアからみた-
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12650640
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Research Institution | The University of Tokyo |
Principal Investigator |
伊藤 毅 東京大学, 大学院・工学系研究科, 教授 (20168355)
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Keywords | ニューヨーク / エンパイア・シティ / グリーク・リバイバル / セントラルパーク / 第2回万国博覧会 / テナメント・ハウス |
Research Abstract |
本年度は研究の初年度にあたり、まずニューヨーク市マンハッタンの1825年から1861年までの都市化のプロセスを明らかにするための基礎資料の収集と分析を行った。 1825年はニューヨークにエリー運河が開削された年で、これを契機にニューヨークの港機能が飛躍的に充実し、メガロポリス化の道を歩む。また1861年は南北戦争が終結した年であって、このころまでにニューヨークの「エンパイア・シティ(Empire City)」としての基礎が築かれる。 ニューヨーク市当局も都市の急激な発展を見込んで、すでに1811年段階でマンハッタン島全域を方格状のグリッドで覆う、有名なニューヨーク・コミッショナーズ・プランを提出しており、エリー運河開削以前ローワー・マンハッタンに留まっていた都市集積は、グリッドを下敷きとしてイースト・ヴィレッジ、ウエスト・ヴィレッジ、ソーホー、ミッドタウンへと拡大してゆく。この時期に都市中間層を受け入れるための集合住宅(Tenament House)が新たに成長した都市地主によって数多く建てられる。このプロセスは、ニューヨーク市所蔵の不動産資料および火災保険地図によって克明に追跡することができる。都市下層向けの集合住宅は当初、ローハウスと呼ばれる2階建ての長屋形式で供給されたが、急激に増加する都市人口に間に合わず、わずかに光庭(Gotham Court)のみをとる4〜5階建ての高密な集合住宅が主流を占めるようになる。 一方、都市中間層に対しては19世紀前半にはグリーク・リバイバル様式を纏った3階建ての住宅が登場する(Joseph Downs Collection of Manusicripts 他)。しかし19世紀のニューヨークはいまだ工業都市としての性格が濃厚であって、新しく都市化したイースト・ヴィレッジやソーホーなどは中小企業の事務所と倉庫が軒を連ねていたことが当時の風景画や写真によって知られる。商活動も旺盛に行われ、アレクサンダー・ステュワートがブロード・ウェイに世界最大規模の小売店を開店したことが、当時のメディアに大きく取り上げられている。 1853年ニューヨークで開催された第2回万国博覧会は、急速に成長する都市の光の部分を演出するのに重要な役割を果たした。ミッドタウンに建てられた水晶宮はのち取り壊されることになるが、多くの観客を吸引した。1860年のニューヨークの人口は80万人を超え、その半数は移民であった。こうした多民族社会を繋ぐ紐帯として市民に開放されたセントラルパークの開園(1871年)はこの時期の都市社会を考える上できわめて重要な位置を占める。
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