2000 Fiscal Year Annual Research Report
Project/Area Number |
12710209
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Research Institution | Oita Prefectual College of Arts and Culture |
Principal Investigator |
高瀬 圭子 大分県立芸術文化短期大学, 一般教育, 助教授 (60280286)
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Keywords | マクシミリアン一世 / 神聖ローマ帝国 / ハプスブルク家 / ポイティンガー / 皇帝戴冠 |
Research Abstract |
神聖ローマ皇帝マクシミリアン一世(1519年没)の時代は、帝国史のうえでは、国王ないし皇帝と帝国等族の分離・対立による国制の二元化が進行した時期とみなされている。教権との関係についていえば、すでに14世紀の国王選挙制度の確立により、教皇の介入は極力排除された状態にあり、したがって選挙された国王と教皇により戴冠された皇帝の相違も実質的にはうすれつつあった。マクシミリアンが皇帝戴冠によらず、自ら「選挙されたローマ皇帝」号を帯びたことは、この傾向を決定的に明らかにしたものととらえられている。しかし、少なくとも皇帝の周辺においては、皇帝戴冠の必要性はなお自明だったのであり、それはコンラート・ポイティンガーのような帝国の知識人の著作にあらわれている通りである。 彼の帝権観は、皇帝を教皇との協調のもとにキリスト教世界を守護する存在とみなす伝統的な観念を基調とするものであり、カール大帝への帝権移行の理論に立脚し、また皇帝戴冠を期待する根拠をドイツ諸王・諸帝の教会に対する功績に求める点において、帝権と教権の理論的闘争を経験した中世後期の著作家に多くを負っている。とくに帝権のドイツへの帰属の主張は、フランスとの対抗関係の下で現実的意義を持ち続けた。一方、故郷アウクスブルクと皇帝の間の政治的仲介役もつとめたポイティンガーは、帝国外へ支配権を拡大しつつあるハプスブルク家の王朝政策の支持者でもあり、その政治思想においては、ドイツ的帝権論とハプスブルク王朝理念が共存せられている。だが、マクシミリアン時代には、中世後期に練り上げられた、帝国支配の淵源としての選挙に関する議論に比重が置かれなかった点が注目される。国王選挙と皇帝戴冠の意義については、国王と皇帝の称号を手がかりとして、中世後期から近世にかけての帝国史の展開を視野に入れつつ、今後も検討を行ってゆきたい。
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