2002 Fiscal Year Annual Research Report
バロンの反乱(1258-67年)のイングランド国制史上の意義に関する研究
Project/Area Number |
13610464
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Research Institution | Kansai University |
Principal Investigator |
朝治 啓三 関西大学, 文学部, 教授 (70151024)
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Keywords | マグナ・カルタ / 王国共同体 / オクスフォード条款 / ヘンリ三世 / バロンの反乱 |
Research Abstract |
今年度初めに作成した研究計画に従って、13世紀イングランドにおける王国共同体の実体を、国制史の史料から探り出す研究を行った。その結果、パウイク等による通説とは異なる結論を得た。その内容は以下の通りである。1215年のマグナ・カルタ第61条に見られる王国共同体の語が表すのは、規定された25人の諸侯とそれに次ぐ地位の諸侯からなる団体であった。それは国王がそれまで行使していた国家の公権力に相当する権力を実際に行使していた。その後ジョンの死、9歳のヘンリ三世の後継により、摂政となったマーシャルの下で国王は公権力を諸侯と分有する政策を採った。1234年にロッシー派を追放した後、国王は親政を開始し、ヨーロッパ内でのイングランド王家の地位を高める政策へと転換した。フランス王と対決しポワトゥへ出兵した。その戦費を課税で賄おうとして、諸侯の既得特権を侵害する行為、すなわち州長官の特権領立ち入っての調査および裁判、領民への直接課税を、1237年以降積極的に行った。その都度諸侯は初めは個別に、1244年以後は同盟を結んで国王の政策に対抗した。1250年以後、王の介入が露骨になると諸侯の抵抗も厳しくなり、1258年2月にはウースタ司教特権を国王に承認させた。しかし同年4月の国王親族がある諸侯の特権を侵した事件をきっかけに、バロンは公然と国政改革運動を開始した。すなわち1215-58年には、身分の境を超えた「国民」一体としての王国共同体像は証明されない。この一連の過程を国王と諸侯とのやりとりを示す公文書や年代記を用いて実証した。研究の中間報告を5月に奈良大学で、11月に関西学院大学で講演した。詳しい内容を論文として2003年3月刊の関西大学文学論集に掲載する。また英文で合衆国での環太平洋中世学会にて3月に報告する。2002年11月にその内容の一部の要約を英文で雑誌に掲載した。
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