2016 Fiscal Year Research-status Report
共同行為の虚構論的および演技論的分析 ―義務の発生の問題に即して―
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15K01993
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Research Institution | Nagoya University |
Principal Investigator |
田村 均 名古屋大学, 文学研究科, 教授 (40188438)
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Project Period (FY) |
2015-04-01 – 2018-03-31
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Keywords | 共同行為 / 義務 / キリスト教 / 神 / ヒューム / ウォルトン / ごっこ遊び / 想像 |
Outline of Annual Research Achievements |
本研究は、共同行為の産出される過程を分析し、共同行為の説明を演技論的ないしごっこ遊び的な説明枠組みによって与えることを通じて、義務の発生の問題を考察しようとするものである。この問題設定の根底には、権力に演技的に服従する心的機制が義務の心理の根底にあるという見通しが存在する。 上の問題設定および見通しに沿って、2016年度は、以下のような研究実績を挙げることができた。 (1)昨年度の研究成果を引き継ぎ、西洋近代哲学の文脈においては、個人の道徳行為が神との共同行為という性格を帯びるという洞察にもとづいて、単著論文「懐疑家フィロはなぜ宇宙的知性を認めたのか ―ヒューム哲学とキリスト教の関係について―」(名古屋大学文学部研究論集、哲学63、pp.19-60)を公表した。 (2)また共同行為の成立機序をケンダル・ウォルトンの美学理論に沿って精査するとの当初計画に従い、単著論文「事物と私たちの想像論的なかかわりについて ―ケンダル・ウォルトンの「想像活動のオブジェクト」の概念をめぐって―」(名古屋大学哲学論集、第13号、pp.1-21)を公表した。これは、現実世界の事物が、「そこにあるそれが、虚構世界においてはFであると想像せよ」という命令の下で、虚構世界において現実とは異なる何ものかに変貌する現象を分析し、その根底に、現実と虚構をつなぐものとしての実体的な存在者の介在がウォルトンの所説において前提されている、と論じたものである。この議論は、ごっこ遊びへの参加者として自分自身という実体的存在者の役割を分析する上で重要であり、本研究の展開の支柱となると予測されるものである。 (3)さらに、以上のような考察の基礎作業として、訳書ケンダル・ウォルトン『フィクションとは何か』(田村均訳、名古屋大学出版会、2016.5刊)を出版した。
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Current Status of Research Progress |
Current Status of Research Progress
2: Research has progressed on the whole more than it was originally planned.
Reason
研究実績の概要(1)に記載した論文は、昨年度のイギリス哲学会第40回大会におけるシンポジウムの口頭発表にもとづくものである。この論文では、キリスト教的自然法論を否定し、人間相互の共感や合意から道徳感覚が成立するという脱キリスト教的・非神学的道徳論を展開したヒュームが、生涯の最後の論文でキリスト教的な宇宙的知性を肯定せざるを得なかったのはなぜか、という問いに回答を与えた。現代の共同行為論はキリスト教への言及を行わないが、果たして超越的な力に服従するという様態を完全にしりぞけて、なおかつ共同的な協調が可能であるか、という問いは依然として意味を持つ。現代の諸理論に対する歴史からの異論として、ヒュームの哲学がたどった道筋を確認したことは、研究上の順調な進展と言える。 研究実績の概要(2)に記載した論文は、人間が想像上の状況において、心理的に反応したり、身体的に行動したりする際に、現実世界と想像世界との同型性を確保する仕掛けとして、現実世界の実体(事物)が重要な役割を果たしていることを指摘するものである。一般に、義務の必然性や可能性は、想像上の状況において出現するが、その状況は、根本的なところで現実世界にある程度似通っていなければならない。この根本的な類似性は、現実世界と虚構世界の物理法則が同じであるとか、同じ社会習慣が維持される、といった種々の設定で維持されると考えられる。そのような設定の一つとして、同一の実体(物体、空間占拠者)が現実世界と虚構世界をまたいで同一の「それ」として措定される、という事実があると考えられる。これによって、自己という実体もまた、同一の「それ」として現実世界から虚構世界に移行すると予想できる。これは、想像上で成立する義務の必然性が、現実世界の自分自身を拘束する仕組みを解明するための有力な手がかりであり、大きな研究上の進展であると言える。
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Strategy for Future Research Activity |
2017年度(平成29年度)は、本研究の最終年度として、当初計画通り、共同行為の虚構論的・演技論的説明枠組みの構築に取り組む。そのために、数ある共同行為の類型の中から、特に興味深い類型として、犠牲的行為ないし自己犠牲的行為という類型を取り上げる。 犠牲(sacrifice)および自己犠牲(self-sacrifice)は、洋の東西を問わず、一定の構造を備えた物語として取り出すことができる。その物語の中に或る個人が参加すると、その個人は「その身を捧げねばならない」という義務の要請の下にみずからを置くことになる。とりわけ自己犠牲的行為においては、個人の〝素の(あるがままの)〟気持ち(「犠牲となって死にたくはない」)と、物語内の〝役柄の〟気持ち(「我が身を進んで捧げる」)との隔たりは大きい。この隔たりがどのようなメカニズムによって生じるのか、また、隔たりがありながら、行為者はなぜ物語に合わせて行為(演技)することを止められないのか、という問題を考えることを通じて、義務の発生の機序を洞察することが出来ると考えられる。 考察を具体的に進めるために、自己犠牲の語りを提出している文献史料を取り上げて、演技的な行為と義務の発生を結びつけることを試みる。取り上げるのは、「シンガポール華僑粛清事件」の責任を負ってBC級戦犯裁判において死刑となった河村参郎(大日本帝国陸軍少将・事件当時)の遺文である。河村が残した獄中日記や英軍司令官宛意見書、家族宛手紙などの「自己犠牲」および「犠牲」という言葉と、河村が経験した事実経過とを突き合わせて、現実には強制された刑死にほかならない河村の死が、河村の意識の中(河村が作り出した物語の中)では自己犠牲としての死に変貌し、それが義務として主体的に引き受けられる経緯を浮かび上がらせる計画である。
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Causes of Carryover |
2016年度においては、研究上効果的な仕方で、適切に予算を執行していったが、年度末において、極めて僅かの残額が生じたものである。残額を年度内に執行するよりも、次年度に繰り越す方が研究上合理的であると考えられたため、次年度使用額が0より大となった。
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Expenditure Plan for Carryover Budget |
2017年度の予算と合算して、適切に使用する。
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