2015 Fiscal Year Research-status Report
ウィリアム・バトラー・イェイツの後期舞踏劇における表象の展開に関する研究
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15K02334
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Research Institution | Tokyo University of Agriculture and Technology |
Principal Investigator |
佐藤 容子 東京農工大学, 工学(系)研究科(研究院), 教授 (30162499)
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Project Period (FY) |
2015-04-01 – 2018-03-31
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Keywords | アイルランド演劇 / 能 / 狂言 / サウンド・シンボリズム / フォークロア |
Outline of Annual Research Achievements |
平成27年度には、W.B.イェイツの後期舞踏劇の一つ、『三月の満月』(1935)を主として「能」の影響という観点から分析した。この劇作には、直接的に能を出典とする劇筋はないが、イェイツは、能の謡にも似たコロス的な声の使い方と劇中の心像の統一という点を織り込むことにより、能的要素を独自に消化して祭儀性の高い演劇形式を創出していることを明らかにした。 『三月の満月』の核をなす心像は、「切断された首」を掲げて踊る女王の姿であるが、これは従来、オスカー・ワイルドの劇作『サロメ』との関連で論じられてきた。本研究では、ケルト民族の伝統において「首」が持っていた「魂の座」としての神聖な意味あいに注目し、豚飼いの首(切断された身体)が高貴な女王(霊的な存在)と舞踏により結合して「復活」する表象となることを読み解いた。またケルト民族においては、聖水を頭蓋骨に満たして飲む風習もあったように、「切断された首」が「聖水」と関連しており、相互にその霊力を強め合うとされたことにも注目した。イェイツの前期舞踏劇は、能に触発されて最初に書いた『鷹の泉』も、日本の狂言を模した『猫と月』も、「聖水」をめぐる劇作である。それに対して、後期舞踏劇のイェイツは、その「聖水」の心像を、いわば「聖水」と関連する「切断された首」に転化することによって、生者の世界と霊的世界の橋渡しを行っていると論じた。 一方で、「ワキ」的登場人物たちである従者一と従者二とされる『三月の満月』の楽師たちは、劇の冒頭における歌の選択で劇の基調を自ら決めると共に、劇中の脇役も演ずるほか、「シテ」的登場人物である女王と豚飼いに成り代わって歌うなど、幾重もの役割を担っている点が特徴的である。この劇作では、楽師たちがいわば能の謡にも似て、劇の外と内を自在に出入りすることによって、生者の世界と霊的世界との、邂逅と融合の劇化を果たしていることを示した。
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Current Status of Research Progress |
Current Status of Research Progress
1: Research has progressed more than it was originally planned.
Reason
本研究においては、W. B.イェイツの劇作と日本の「能狂言」との関わりの探究が大きな柱をなしている。平成23年度~平成25年度に助成を受けた基盤研究(C)でも取り上げた劇作『猫と月』に関してもあわせて調査が進み、イェイツが参照したと考えられる日本の狂言「不聞座頭」の英訳草稿との比較対照研究を行うことができた。 イェイツ自身が『猫と月』は日本人が狂言と呼ぶものを意識して書いたと述べ、リチャード・テイラー、アンドルー・パーキンにより、『猫と月』の出典の一つは、日本の狂言「不聞座頭」であることが指摘されながら、これまでイェイツが研究したと考えられるアーネスト・フェノロサ訳の「不聞座頭」の草稿自体について十分な研究がなされてきたとはいえない。「不聞座頭」の英訳草稿は、フェノロサ夫人メアリー・フェノロサがエズラ・パウンドにフェノロサの遺稿として委託した能の英訳草稿のなかに含まれており、現在、イエール大学図書館のエズラ・パウンド・アーカイブに収められている。この英訳草稿のPDFを入手して手書き原稿をタイプし、狂言のどの流派の「不聞座頭」の英訳であるかを調査研究した。その結果、挿入されている二つの謡が大蔵流のものとも和泉流のものとも完全に一致せず、最終的には、江戸時代に一般読者のために出版された『続狂言記』(1700)に掲載されている「つんぼ座頭」の英訳であることをつきとめた。 『続狂言記』にある「つんぼ座頭」の謡の一つは「熊野道者」に関する俗謡であり、聖地と聖なる木のモチーフが含まれていることから、イェイツの『猫と月』との共通点が見出される。もう一つの謡は「宇治の晒」であり水辺の情景が描きだされることから、『猫と月』の中心にある聖なる泉と響きあうものがある。挿入される清新で軽やかな謡と、相互補完的な登場人物たちのなぶりあいの絶妙なバランス感覚こそ、イェイツは狂言から学んだと推察される。
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Strategy for Future Research Activity |
平成28年度には、W.B.イェイツの後期舞踏劇のなかで『復活』を取り上げ、サウンド・シンボリズム、スピリチュアリズム、フォークロア、能及び狂言との接点という多層的な観点から分析する。『復活』は、ディオニソスの神話や聖書の物語を踏まえつつも、イェイツにとって「心」の象徴となっていく日本刀「元重」を贈った日本人、佐藤醇造に捧げられていることから、イェイツの提示する象徴の意味合いを再構築する必要がある。その過程で、この劇作では、ディオニソスの信奉者たちの喧騒の/d/音、/b/音の乱舞を媒介として、「途方もない形のない闇」から「脈打つ心臓」が顕現するさまが、/f/音から/b/音への転換と合体によって示されていくことを論証する。 またこの劇作には、『窓ガラスに刻まれた言葉』のように、降霊会にも通じる霊的邂逅の要素が含まれていると考えられるため、「スピリチュアリズム」探究の過程で妻ジョージと行った共同作業を含めた様々な伝記的事実とイェイツの哲学的及び宗教的思索の深化にも目配りする。さらに留意すべきは、『復活』は、イェイツ自身「舞踏劇」として構想しながら、最終的には生身のダンサーは登場せず、その舞踏は「ワキ」的な登場人物によって描写されることで創造される、という間接的な表現をとっていることの意義を考察する必要がある。 イェイツの後期舞踏劇の分析にあたっては、能との類似点に重点をおいたアプローチと同時に相違点に重点をおいたアプローチも有効である。イェイツより時代は下るが、昭和初期に書かれたキリシタン能の新作である宝生流の『復活のキリスト』(吉田魯洋作詞、宝生九郎作曲、1957)、喜多流の『復活』(土岐善麿作詞、喜多実作曲、1961)、さらに狂言の『復活』(九世三宅藤九郎自作自演、1962)との相違点を分析することにより、イェイツの『復活』の独自性を浮かび上がらせる計画である。
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[Presentation] W. B. Yeats and the Noh2015
Author(s)
佐藤 容子
Organizer
The Inaugural Conference of International Yeats Society
Place of Presentation
University of Limerick, Lemerick, Ireland
Year and Date
2015-10-16
Int'l Joint Research / Invited
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