2016 Fiscal Year Research-status Report
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15K20866
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Research Institution | Tohoku University |
Principal Investigator |
高橋 恭寛 東北大学, 文学研究科, 専門研究員 (70708031)
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Project Period (FY) |
2015-04-01 – 2018-03-31
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Keywords | 中江藤樹 / 儒学 / 会津藤樹学派 / 修養論 / 日本陽明学 / 淵岡山 / 中江常省 |
Outline of Annual Research Achievements |
本研究では「日本陽明学派の祖」と称された中江藤樹(1608~48)の弟子たちを取り上げ、単に「陽明学」的か否かという後世の評価を前提とするのではなく、どのように学祖・中江藤樹の教えを学派が継承したのかを捉え直すことで、新たな藤樹学派像を描き出すことを目的としている。そこで本年度も、そもそも藤樹学派がどのような思想展開をしているのか、昨年度に継続して思想内実の解明を試みた。 まず昨年度に継続して学祖・中江藤樹の三男、中江常省(1648~1709)を取り上げ、本年度では、中江常省の教示について、より分析を深め一つの論考にまとめることが出来た。さらに、藤樹書院が所蔵する『書院日記』や書院への『参拝録』を整理し、19世紀にどのような人物がどこからやってきたのかを明らかにした。京都府内と近江国(地元大溝藩をはじめ膳所藩、堅田藩など)とで大半であり、ほかに大坂や福井など畿内近隣が中心に参詣者が存在し、江戸後期であっても「藤樹書院」が「名跡」となっていたことを見てきた。その中江藤樹の生きる時代に関わり、改めて儒教経典『孟子』をもとに17世紀から18世紀に至る儒学受容の系譜についても分析を行った。 さらに、全国に広がった藤樹学派のなかでも、会津喜多方の藤樹学派は幕末まで継承されたことで知られる。この会津学派の思想分析は、これまでも全くの手付かずというわけではなかった。しかし、やはり思想分析という点では十分ではなく、中江藤樹の思想の亜流とされ、1980年代に会津学派の思想的独自性を指摘されて以来、思想内容にまで立ち入った研究はほとんど出てこなかった。そこで本研究で会津学派が藤樹とその高弟淵岡山以来の課題「立志」をどのように受け止めたのか、改めて分析することで会津において藤樹の学問がどのような位置付けにあったのか、藤樹・淵岡山を経て、会津において藤樹学がどのように展開していったのかの分析を試みた。
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Current Status of Research Progress |
Current Status of Research Progress
2: Research has progressed on the whole more than it was originally planned.
Reason
藤樹没後に、淵岡山や会津学派などの後学たちが、藤樹の課題たる「立志」をどのように継承したのかについて、それぞれ論文のかたちにまとめることが出来た。本来、時代が下ることによって、それぞれの問題関心が異なってゆくのは自然なことではあるのだが、自らの学問を〈中江藤樹由来の学問〉と自己規定した藤樹学派の人々は、藤樹の言説を受け止めた上で「立志」をどのように起こすことが出来るのか、という言説を紡いでいたことを見ることが出来た。藤樹没後の藤樹書院、高弟の淵岡山、そして会津学派というまとまった資料を有する後学に関する思想分析に着手し、それぞれ一つの成果を見ることが出来た。藤樹の三男・中江常省についてその主張の具体的中身に踏み込み、会津藤樹学派についても、その「独自性」という特殊な面のみを浮かび上がらせるのではなく、どのような点で学祖・藤樹を継承していたのか、彼等における「藤樹学」の内実を捉え直す試みを行ったことは、これまで全く藤樹学研究のなかではなされておらず、今後、藤樹後学たちについて考察する際にも、一つの素材を与えることになる成果を上げることが出来た。 資料収集については、滋賀県高島市にある藤樹書院と中江藤樹記念館における資料収集などについては、江戸期のものは、ほぼデジタル写真での撮影を行うことが出来た。また竹下喜久男編『藤樹書院文献調査報告書』(滋賀県安曇川町安曇川町教育委員会、1993)などを参照しつつ、『藤樹書院日記』や『参拝録』などを基に、藤樹書院への参拝者の出身地などの分布をデータ整理することで、19世紀における藤樹書院の影響力を今後考えてゆく材料をまとめあげることが出来た。 以上のように、主要な資料と中心軸となる学派の人物についての思想的課題を分析することが今年度達成出来ており、これを軸にすることによって、更なる藤樹学派分析へと進むことが出来る成果を上げることが出来た。
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Strategy for Future Research Activity |
藤樹書院・中江藤樹記念館における江戸期の主要な資料の収集はある程度達成出来たのであるが、会津喜多方に関わる資料調査や藤樹が青年期に仕官していた大洲藩のあった愛媛県大洲市に関わる資料調査はほとんど行っていないため、資料調査については継続的に行ってゆきたい。更に藤樹書院には、明治維新を迎えてからの参拝録も存在するため、明治以降の藤樹学の広がりについても考察する材料を提供する。中江藤樹が近代から現在に至るまで、どのように再生産されていったのか、そのようなことを考える一助にもなるであろう。明治以降の参拝録についても藤樹書院に出向いて閲覧の機会を窺ってゆきたい。 藤樹学派の思想分析については、これまで扱ってこなかった、淵岡山の弟子や、地方に散らばった藤樹学派たちについて言及してゆきたい。藤樹学派の文献整理が行われるなかで、彼等の特殊な面について言及されたこともあり、それ以降に、これまでの先行研究では、ほとんど思想的な分析を加えられたことがない。そこで、本研究課題においては、藤樹のどのような点を継承しようとしたのか、などの分析視角から再度考察を加えてゆくことを試みる。 さらに、中江藤樹自体の文献は、江戸後期に至るまで書簡などを含めて刊行され続けていた。伴蒿蹊『近世畸人伝』(1790年刊)をはじめ、「中江藤樹」は伝記的人物として再生産されていった。伝記的人物としての「中江藤樹」が、それぞれの時勢に影響を受けたかたちで継承されていったことは、既に先行研究にある。ただ、学派内部において、どのような「藤樹像」が継承されていったのか、また世間で流通した書籍から読み取れる〈藤樹先生の教え〉にどのような傾向があるのか、そのような点を最終年度に調べる。そのような様々な媒体における「中江藤樹像」の捉え直しによって、江戸期における藤樹学派と、中江藤樹の学問との位置付けを考察してゆくことを試みる。
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Research Products
(4 results)