2006 Fiscal Year Annual Research Report
Project/Area Number |
16520171
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Research Institution | Kokushikan University |
Principal Investigator |
松本 昇 国士館大学, 政経学部, 教授 (00165903)
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Co-Investigator(Kenkyū-buntansha) |
小倉 いずみ 大東文化大学, 法学部, 教授 (00185563)
高橋 勤 九州大学, 言語文化研究院, 助教授 (10216731)
君塚 淳一 茨城大学, 教育学部, 助教授 (60259588)
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Keywords | ジョン・ブラウン / 南北戦争 / 奴隷制 / ヘンリー・デイヴィッド・ソロー / ラルフ・ワルド・エマソン / 歌「ジョン・ブラウンの屍を越えて」 |
Research Abstract |
平成18年12月17日(於、青学会館会議室)ジョン・ブラウン関連の研究会を行い、小倉いずみ(大東文化大)が「ラルフ・ワルド・エマソンと奴隷制について」、高橋勤(九州大学)が「ヘンリー・デイヴィッド・ソローについて」という題目で、それぞれ研究発表を行った。小倉の研究発表の要旨は、次の通りである。1850年代はエマソンが奴隷制に反対する政治的動きを取った10年である。それはハーバード・ロースクールでの講演にもあらわれている。当時のロースクールは南部出身の裕福な子弟が学んでおり、ハーバード大学は彼らの意向を無視できなかった。エマソンはロースクールで下院議員選挙に出馬したパルフリーの応援をしていたが、その講演もヤジで中断した。大学の理事会は人数が少なかったため、南部寄りだったが、評議会はマサチューセッツの州知事や議員が多く、彼らはロースクールの保守的体質に対して反発していた。評議会がハーバードの主流となるのは1850年代後半だが、エマソンは自分の母校が奴隷制を支持することを許さず、政治家との接触を深めてゆく。1850年の妥協で逃亡奴隷法が可決され、エマソンはこれにも大反対したが、司法で破壊的影響力を持ったのは1857年のドレッド・スコット判決である。黒人を合衆国市民と認めず、訴訟の権利はないとしたこの判決は、エマソンを含めて知識人を怒らせた。この判決は1820年のミズーリ協定で定められた北緯36度30分の南北の境界線も無効としたため、奴隷制が拡大する危険性も持っていた。後に憲法修正によって破棄されることになるドレッド・スコット判決は、南部を懐柔するための司法による裏切りであった。エマソンは憲法の精神に反するこの判決を認めず、戦争の不可避性を予測している。 また高橋は、ヘンリー・デイヴィッド・ソローが1830年ごろから奴隷制に対して反対するようになっていく経過を詳しく発表した。
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