2006 Fiscal Year Annual Research Report
Project/Area Number |
16520454
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Research Institution | Chubu University |
Principal Investigator |
河内 信幸 中部大学, 国際関係学部, 教授 (40161278)
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Keywords | ニューディール / ローズヴェルト / 連邦芸術計画 / ベン・シャーン / ダウンタウン・ギャラリー / ハーヴァード現代美術協会 / 具象主義 / 象徴的具象主義 |
Research Abstract |
○次のようなスミソニアン協会(Smithsonian Institute)に所蔵されている資料、雇用促進局(Works Progress Administration)や農場保障局(Farm Security Administration)の連邦芸術計画に関連した資料など検討した。 ・Down Town Gallery Papers ・Raphael Soyer Papers ・Washington,D.C. Federal Bureau of Investigation, Ben Shahn File ・Washington,D.C. National Archives, Farm Security Administration, Administration Correspondence, 1935-1939. Record Group 96, AD 986-987,994 その結果、連邦芸術計画がニューディール芸術計画のなかで最も大規模なものであることがより鮮明になり、1942年に雇用促進局が廃止されるまでの9年間に、5000名以上の画家や彫刻家に仕事を与えたことが分かってきた。また、連邦芸術計画が地域コミュニティの活動に貢献したことも明確になり、戦後のアメリカの文化政策に寄与した意義を理解することができた。 ○ベン・シャーン(Ben Shahn)は、戦時中に戦時情報局や産業別組織会議(CIO)雇用されており、ヨーロッパやアジアの戦争の惨禍を早くから痛感していた。そのため、「これがナチの残忍さだ」(1942年)、「紀元1943年」(1943年)、「隷属-敵のやり方」(1943年)、「イタリア風景」(1943-44年)、「イタリア風景II、ヨーロッパ」(1944年)、「赤い階段」(1944年)などの作品には、人間の現実的な苦しみと、その社会的背景に悲痛な思いを寄せるシャーンの冷徹な「社会的リアリズム」が表れていた。 しかしシャーンは、戦後にかけて作風を次第に変化させた。それまでの社会的抗議の姿勢が後退し、「桑の木のなかの音」(1948年)、「アレゴリー」(1948年)、「第二のアレゴリー」(1953年)、「第三のアレゴリー」(1955年)などが示すように、多くの作品において神秘的で象徴的な傾向が強まるようになった。これは、シャーンが単なる写実主義からある種の象徴主義へと脱皮し、より深い芸術世界へと分け入った証拠であり、具象主義(フィギュラティヴィズム)から象徴的具象主義(シンボリック・フィギュラティヴィズム)とも呼ぶべき世界へと芸術性の幅を広げたと考えることができる。しかも、かなりの芸術家が終戦直後に「赤狩り」旋風の被害に遭遇しており、シャーンが参加した国務省主宰の国際巡回展「前進するアメリカ美術展」(1947年)は、破壊的なイメージが強すぎるとして途中で取りやめになってしまった。ベン・シャーンの作風を跡付ける時、このような社会的背景も忘れてはならないのである。
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Research Products
(1 results)