2019 Fiscal Year Annual Research Report
Reconstruction of the History of Japan-Korea Relations in the KofunPeriod of Japan and the ThreeKingdoms Period of Korea
Project/Area Number |
16K03173
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Research Institution | National Museum of Japanese History |
Principal Investigator |
高田 貫太 国立歴史民俗博物館, 大学共同利用機関等の部局等, 准教授 (60379815)
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Project Period (FY) |
2016-04-01 – 2020-03-31
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Keywords | 三国時代 / 栄山江流域 / 前方後円墳 / 倭系文物 |
Outline of Annual Research Achievements |
本研究の課題は、朝鮮半島西南部における三国時代遺跡の調査・研究成果に基づき,5世紀後半から6世紀前半頃に当地域に造営された前方後円墳を,当地域に根拠を置いた政治勢力たる馬韓(栄山江流域)の観点から歴史的に位置づけることにあった。 栄山江流域における古墳や集落、そして土器生産の動向については、5世紀初頭、中葉、そして5世紀末~6世紀初に集落や古墳の変動が確認できた。そこには百済圏の生活や墓制の様式の伝播とともに、倭との交流も大きな要因となっていたようである。栄山江流域に点在する集落や古墳の規模や構造は5世紀中ごろに序列化し、そこに大きな政治的変動があったことを想定しえる。 栄山江流域社会の性格については、6世紀前半までの栄山江流域は、百済との関係の中でも主体的な成長をとげていた社会(地域社会)と判断しえる。そして、栄山江流域において前方後円墳の造営が終了し、百済中央の墓制たる「陵山里型石室」の受容をもって、百済に編入されたとみる。 栄山江流域の前方後円墳には、埋葬施設や副葬品、外表施設(葺石や埴輪)などに、倭以外にも実に多様な要素(栄山江流域、百済、加耶など)が認められることが、あらためて確認された。また、在地の伝統的な古墳にも、倭や百済の埋葬施設や副葬品が認められることも明らかとなった。そして、3、4世紀から連綿と墳墓がきずかれていく墓域に前方後円墳が位置する事例も確認され、在地の造墓活動の中で、前方後円墳がきずかれる状況も指摘できた。 それによって、前方後円墳をきずいた集団と在地の伝統的な古墳をきずいた集団の関係が、対立や協調をふくみこんだ「併存的」な関係であることが浮き彫りになった。したがって、栄山江流域社会が百済の社会統合の動きへ対応する1つの方策として、前方後円墳を採用したという評価が、妥当と考える。
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