2005 Fiscal Year Annual Research Report
18世紀における清,ロシア,ジューン=ガル相互関係史の研究
Project/Area Number |
17520465
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Research Category |
Grant-in-Aid for Scientific Research (C)
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Research Institution | Ibaraki University |
Principal Investigator |
澁谷 浩一 茨城大学, 人文学部, 助教授 (60261731)
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Keywords | 中央ユーラシア / ジューン=ガル / ロシア / 清 / ウンコフスキー |
Research Abstract |
本年度はジューン=ガルが中央ユーラシアの強大な政治勢力であった1720年代前半のジューン=ガルと露清の関係に関する研究を重点的に進めた。この時期最も注目されるのは,1722〜24年にロシアからジューン=ガルに派遣されたウンコフスキー使節団であるが,我が国における研究は皆無である。この使節団は,ピョートル1世がジューン=ガルとの同盟関係構築を狙ったもので,ネルチンスク条約以来の,清露の友好関係を基礎とする中央ユーラシアの政治状況を一変させる可能性があった。結果的にこの同盟は成立しなかったのだが,これについて従来の研究は1722年末の康熙帝の死・雍正帝の即位とそれに伴う清側の対ジューン=ガル政策の方針転換(敵対から和平へ)をその原因として指摘する。しかしながら,実際は,康熙帝の治世においてすでにジューン=ガルへの和平のよびかけがなされており,雍正帝は,康熙年間に対ジューン=ガル政策に影響力を持ったモンゴル人官僚の意見に従い,従来の政策を継続する形で和平提案を行なったことが清側史料から裏付けられる。この時ロシアとの同盟を回避したジューン=ガルの判断によって,清・ジューン=ガル間,さらには清露間での国境画定交渉開始という次の歴史的展開が生まれたのである。なお,当時のロシアとジューン=ガル,清とジューン=ガルの交渉過程を比較すると,臣属条約への署名を求めるロシア側の強硬姿勢と,中華皇帝としての立場を示しながらも,チベット仏教という共通の文化的要素を前面に出して平和的関係の構築を図ろうとする清側の姿勢の対比が鮮明に浮かび上がることも指摘できる。以上の新知見は,まもなく発表する予定の論文に盛り込まれる。中国の文書館における満文史料の公開停止という予想外の事態により,今年度は予定していた北京での史料調査を断念せざるを得なかった。来年度は,ロシア側の動向に関する研究に重点を移す予定である。
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