2019 Fiscal Year Research-status Report
アレクサンドリアのフィロンの倫理思想:聖書学的・思想史的考察
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17K02628
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Research Institution | Ferris University |
Principal Investigator |
原口 尚彰 フェリス女学院大学, 国際交流学部, 教授 (60289048)
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Project Period (FY) |
2017-04-01 – 2021-03-31
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Keywords | フィロン / パウロ / 自由 |
Outline of Annual Research Achievements |
本年度は、フィロンと使徒パウロの自由の理解の比較検討を釈義的研究を通して行った。具体的には、ギリシア・ローマ世界の倫理思想における自由論を検討した後に、文献学的研究の基本に従って、フィロンとパウロの自由の観念を伝える原典資料を釈義的に読み解き、相互の一致点と相違点について考察した。 フィロンの自由の理解にはギリシア・ローマ世界の自由論の影響が見られる。彼は民族・国家の独立という意味での自由の観念を知っており、出エジプトの出来事を民族の自由の回復の出来事として理解している(『モーセ』1: 71, 86)。フィロンの自由論の中心は内面的自由にあった(『寓意的解釈』3: 89)。彼はストア主義の考え方を継承して、理性的認識によって様々な欲望や情念から解放されることを自由の本質的内容と考えていた(『自由』1, 21, 62)。こうした精神の自由は、哲学的な学びによって知恵に達した賢人が享受するものとされる(49, 59, 61)。 パウロも自由の問題に関心を持っていた。パウロにとっては罪の支配下にある人間が、キリストを信じることにより、罪から解放され義といのちに到るようになることが大切であった(ローマ5:12-21; 6:1-23)。パウロは、キリストが信じる者を律法の支配から解き放ち、自由を与えたと考え、律法からの自由を「福音の真理」と呼んでいる(ガラ2:14)。こうした思想的姿勢は、自由と法規範を相対立するものとは考えなかったフィロンとは大きく異なっている。フィロンにとり自由とは理性に従って神や自然が定める法を認識し、それに従って生きることを意味したのである(『自由』1, 21, 62, 107,159)。本研究の研究成果は論文「フィロンにおける自由の観念」として、『フェリス女学院大学キリスト教研究所紀要』第5号(2020年3月発行)5-25頁に掲載された。
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Current Status of Research Progress |
Current Status of Research Progress
2: Research has progressed on the whole more than it was originally planned.
Reason
本年度は本研究プロジェクトの3年目にあたり、原典資料や関連の二次文献の整備が進んで来たので、資料収集のために掛ける時間が短縮され、資料の釈義的分析やその思想史的検討といった研究にとり中心的な作業に集中出来たことが、研究を順調に進めることが出来た第一の理由である。 第二の理由は、古代思想の中で自由の問題を深く考察したのはギリシア・ローマ思想だけであり、旧約聖書やユダヤ教の思想的伝統については調べる必要があまりなかったことである。このために思想史的な位置づけをする必要から、周辺世界の思想的伝統について調べて考察する作業を短縮することが出来た。この点は旧約・ユダヤ教の思想的伝統を詳細に調べなければいけなかった、前年度課題「フィロンにおける法(律法)の理解」の場合とは大きく異なっている。 第三の理由は、フィロンの自由の理解には、旧約・ユダヤ教の伝統よりも、ギリシア・ローマ世界の自由論の影響が大きいという作業仮説が適切であったので、資料を読み解き、思想史的位置付けをする過程がスムーズに進んだことである。最初の作業仮説が適切でなければ、作業の途中で予想に反する結果が出てきて、最初に戻って仮説を再検討する必要が生じ、作業を一旦中止し、プロジェクトの進め方自体を再検討する必要が出てくるが、今回はそのようなことは起きず、分析作業を中断なく進め、結論に到ることが出来た。 第四の理由は、フィロンの自由理解と比較検討の対象となったパウロの自由論は、パウロ研究者である代表研究者自身が従来から関心を持ち、長い間研究してきた主題であることである。自由の問題はパウロの倫理思想の中で中心的な問題である。代表研究者自身はパウロが書いた代表的書簡であるガラテヤ人への手紙についての学問的注解書を書いて以来(『ガラテヤ人への手紙』新教出版社、2005年)、この問題に釈義的な研究を積み重ねて来ている。
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Strategy for Future Research Activity |
最終年度である令和2年度は、フィロンにおけるpistisの概念の分析を通して彼の信仰論について考察したい。ギリシア語名詞pistisは、信実、誠実、証拠、信仰等を表す言葉であり、七十人訳聖書では民への約束を守る神の信実について使用されることが多い。フィロンにおいてpistisは、旧約的な信実の意味でも使用されるが、発言が真実であることを示す証拠という意味で用いられていることが多い(『世界の創造』57, 84, 93, 109他)。神の言葉の真実性は旧約聖書の世界においては大前提であり、論証の対象にならないが、フィロンは聖書の言葉の真理性を論証しなければならなかった。旧約聖書に書いてあることは、読者として想定されているギリシア・ローマ世界の教養層に対して論証抜きに真理性を保証することにならないからである。 名詞pistisは新約聖書において、人の神への信仰を指して使用されることが多い(マコ2:5; 5:34; 11:22; ロマ1:8; 4:5, 9, 11他)。フィロンにもpistisを信仰の意味で使用している例がある(『アブラハム』268, 270, 271, 273他)。不信から信への移行ということは、ユダヤ人哲学者であったフィロンにとっても、初期のキリスト教徒にとっても大切な主題であった。 フィロンの宗教哲学は神への信仰を強調することにおいて、使徒パウロの思想に並行する。しかし、神を信じるに至る道筋が、両者では大きく異なる。哲学者であるフィロンの考えによれば、人は理性による探求を通して聖書に証された神の真理を知り、信じるに到るのであるが、パウロは理性による神認識には限界があり、イエス・キリストの福音を聞いて信じることが信仰への唯一の道であると考えていた(ローマ1:18-25; 10:4-17)。これらの問題をフィロンとパウロの著作の釈義的な研究によって明らかにしたい。
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Research Products
(1 results)