2019 Fiscal Year Research-status Report
Project/Area Number |
17K03063
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Research Institution | University of Yamanashi |
Principal Investigator |
大隅 清陽 山梨大学, 大学院総合研究部, 教授 (80252378)
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Project Period (FY) |
2017-04-01 – 2021-03-31
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Keywords | 律令制 / 比較史 / 東アジア / 大化改新 |
Outline of Annual Research Achievements |
3年目にあたる令和元年度には、日本律令制を構成する要素のうち、魏晋南北朝から隋代にかけての律令制を朝鮮半島経由で継受したと申請者が考えている「プレ律令制」の内実についての検討を継続するとともに、大宝律令を中心とする律令制の施行が地域社会に及ぼした影響について、主に甲斐国をフィールドとした研究を深化させて、査読付論文1点、研究報告の巻頭論文1点の成果を得た。 論文「古代史からみた甲斐の地域性」は、前年度に行った武田氏研究会第32回総会記念講演の内容を大幅に増補のうえ論文化したもので、4世紀の古墳時代前期から律令制期にかけての古代甲斐の地域構造を、八代、山梨、巨麻、都留の4郡の変遷から明らかにしたものである。特に、申請者が提唱するプレ律令制段階の孝徳朝の天下立評において、都留評が甲斐ではなく相武国造の支配領域を割いて立評され、当初は相模国に属していたこと、天武朝末年に七道制の施行と合わせて国境の画定が行われた際に、甲斐国が東海道甲斐路(御坂路)を介して東海道に属すことになったため、甲斐路(御坂路)を擁する都留評が相模から甲斐へ移されたと考えられること、大宝律令の施行によって律令制の地方行政機構が本格的に機能するようになったことに伴い、甲府盆地と都留郡との交流や一体化が進むことを様々な指標から明らかにしたことは、本研究課題のテーマを地域史的に展開したものと言える。 論文「文献からみた貞観噴火」は、律令制期の諸文献にみえる富士山やその噴火に関する史料を逐一検討し、富士山の噴火という自然災害が、交通をはじめとする律令制のシステムに与えた影響を明らかにすることで、地域社会における律令制成立の意義も考察し、本研究課題のテーマを別の側面から追究したものである。
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Current Status of Research Progress |
Current Status of Research Progress
2: Research has progressed on the whole more than it was originally planned.
Reason
昨年度に引き続き、研究課題の中心をなす、律令制の段階的な施行が、日本の社会や地域にどのような変化をおこしたかという観点から、論文2点の成果を得た。 特に論文「古代史からみた甲斐の地域性」は、本課題の定義によると「プレ律令制」の段階にある孝徳朝の立評から天武朝の七道制の施行と官道・駅制の整備が地域社会にどのような影響を及ぼしたかを扱っており、7世紀の「プレ律令制」と8世紀の大宝律令施行後の「狭義の律令制」の段階差を、具体的な地域構造の変化から跡づけようとした点において、他に類例のない独自性を持つものと考えられる。 また論文「文献からみた貞観噴火」では、律令制前の大化前代には基本的に駿河の山と考えられていた富士山について、7世紀末の七道制施行と国境確定によって、東海道甲斐路(御坂路)が甲斐の管轄となったことにより、その東麓を含む都留評が甲斐に編入されたこと、大宝律令の施行によって国郡制や駅制が本格的に機能するようになると、富士山の周辺地域と甲斐国との関係も深まり、9世紀に頻発した噴火への対応も通じて、富士山は甲斐国の山でもあると認識されるようになったことを明らかにすることで、本研究課題を別の形で具体化している。 前年度の実績をさらに発展させ、成果の活字としての公表も前年度以上に進んでいることから、全体として、おおむね順調に進展していると考えられる。
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Strategy for Future Research Activity |
令和2年度においては、大宝律令を中心とする律令制の施行が、地域社会に及ぼした影響も踏まえつつ、特に「プレ律令制」の内実についての検討を進め論文として成稿する。 研究代表者は、戦後の古代史研究において、戦前の坂本太郎が提唱した「公地公民制」という概念のうち、「公民制」のみが国家成立のメルクマールとされてきた背景を、大化改新否定論の文脈で位置づけるとともに、代表者が提唱した「プレ律令制」の概念を用いつつ、「公民制」の成立を「狭義の律令制」の成立と同一視してきたこれまでの研究に代えて、「プレ律令制」の文脈で理解することを提唱しているが、例えば以下のような方向で、それをより具体的、実証的に裏付けることを試みる。 1束の稲が収穫される田の面積を1代とする代制が、田令第1条に規定される町段歩制に転換するのも、近年では大宝令の段階とされることが多い。令制前のミヤケ経営においては、その田地はミヤケの稲が投下されている田であり、代で表示されるその面積は、毎年の穫稲の総量から逆算されたものと思われる。また田部とはミヤケの稲を種稲・営料として支給されている人々で、その人数は、ミヤケで運用されている稲の量に比例していただろう。このようにミヤケにおいては、「田地の支配」と「人の支配」を媒介する要として「稲の支配」が存在していたと思われるが、いわゆる後期評の段階で、評(郡)の正倉の形成が始まることは、それまで評内に散在していた部民制以来のミヤケが、この段階で、ようやく評(郡)家=コホリノミヤケに統合され始めたことを意味している。この見通しと、北宋天聖令を用いた日唐令比較研究を結びつけることにより、「プレ律令制」から「狭義の律令制」への転換が行われた大宝令の段階で、律令制的な公民・土地支配が確立してゆく過程を、従来とは異なる形で説明することを目指したい。
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Causes of Carryover |
(理由)約7千円の残金が生じたが、少額の消耗品程度の購入しかできないため、次年度への繰り越しとした。 (使用計画)購入を予定していた図書の刊行の遅れがあるので、刊行が確認され次第、その購入費に充てる予定である。その他については、現在のところ当初の計画通り研究が進んでいるため、研究計画調書の予定にそって使用したいと考えている。
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Research Products
(3 results)