2018 Fiscal Year Research-status Report
幕末期長州藩における洋学の受容と展開-海外留学生の果たした役割を中心として-
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17K03069
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Research Institution | Fukuoka University of Education |
Principal Investigator |
小川 亜弥子 福岡教育大学, 教育学部, 教授 (70274397)
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Project Period (FY) |
2017-04-01 – 2020-03-31
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Keywords | 洋学 / 長州藩 / 留学生 |
Outline of Annual Research Achievements |
3年間の研究計画の2年目となる平成30年度は、文久期(1861~1863)における長州藩士の海外留学と、彼らの帰国後の動向について解明するため、山口県文書館、萩博物館を中心に史料調査を実施した 文久3年(1863)5月、攘夷攻撃の先頭を切った長州藩は、その一方で、志道聞多(井上馨)・野村弥吉(井上勝)・山尾庸三・伊藤春輔(伊藤博文)・遠藤謹助の5人を密かにイギリスへ渡航させた。彼らは、日本初のイギリス留学生でもあった。 イギリスへの渡航計画は、世子毛利定広の小姓役志道聞多の発案によるものであった。計画の遂行に当たっては、諸事周旋のため京都に拠点を移していた周布政之助が中心となり、桂小五郎・村田蔵六らの協力を得つつ迅速且つ極秘裏に進められた。計画それ自体については、既に藩主毛利敬親の耳に達していたことから、本件については、世子定広が帰国の上で敬親に上申する段取りとなっていた。 ロンドンでの5人は、ロンドン大学ユニバーシティ・カレッジの化学教授ウィリアムソン博士の指導の下で、分宿しながら英語の習得に取り組むとともに、同教授の斡旋で、法文学部の聴講生としての入学資格を得た。学業の余暇には、市内各所の銀行や博物館、学校、工場、造船所などを巡見して歩いている。志道聞多と伊藤俊輔は、元治元年(1864)三月、自藩の危急を救うため急遽帰国を決意し、残る三人に後事を託した。体調を崩した遠藤謹助は慶応2年(1866)に、野村弥吉は明治元年(1868)に、山尾庸三は同3年にそれぞれ帰国した。三人はいずれも新政府に出仕し、テクノクラートとして留学の成果を遺憾なく発揮した。 本年度の史料調査の結果、イギリスへの渡航計画遂行までの経緯と人的ネットワーク、就中、藩庁中枢の人物による関与の実態などを解明するとともに、イギリスでの修学状況、帰国後の動向などについて具体的に明らかにすることができた。
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Current Status of Research Progress |
Current Status of Research Progress
2: Research has progressed on the whole more than it was originally planned.
Reason
年次計画に従い、順調に調査研究が進展している。研究2年目となる本年度の進捗については、次の2点の理由により研究計画全体の約60%の達成度と位置付けた。 (1) 文久3年(1861)のイギリス密航計画の経緯と経過に関する再検討と、人的ネットワークの解明できたこと。具体的には、①志道聞多(井上馨)・野村弥吉(井上勝)・山尾庸三・伊藤春輔(伊藤博文)・遠藤謹助の5人のイギリス渡航については、従来の末松謙澄『防長回天史』(1907)や『世外井上公伝』(1933)に加え、「浦日記」や「年度別書翰集」(山口県文書館所蔵)などの第1次史料を用いることで、史料的な制約を克服できる目処がたったこと、②これにより、計画遂行までの経緯や経過を克明に検討できたこと、③計画遂行それ自体を可能にした藩庁中枢の人物(周布政之助・桂小五郎・村田蔵六ら)とのネットワークを明らかにできたことである。 (2) 文久3年(1863)のイギリス密航留学の実際を解明できたこと。具体的には、「諸記録綴込」や「高杉丹治編輯日記」(山口県文書館所蔵)など収められている文書群を用いることで、①5人のロンドンでの修学の状況や巡検の様子を詳細に辿ることができたこと、②自藩の危急を救うため、元治元年(1864)に志道聞多と伊藤春輔が急遽帰国を決意した経緯を再確認できたこと、③聞多と俊輔に後事を託された野村弥吉・山尾庸三・遠藤謹助の帰国後の動向を探ることができたこと、④新政府出仕後、謹助は日本の造幣技術の発展に尽力し、弥吉は日本の鉄道の建設の中心的存在となり、庸三は造船・工学教育の分野で活躍し横浜製鉄所の事業に携わるなど、イギリス系の工学技術の移植に貢献した3人の実像を明らかにできたことである。
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Strategy for Future Research Activity |
3年間の研究計画の最終年となる平成31年度の研究目的は、、慶応期(1865~1867)における長州藩士の海外留学と、彼らの近代日本建設への関与について解明することにある。その際、次の2点に焦点化し、そのために必要となる史料の調査、資料・文献の収集を実施する。 (1) 《慶応元年(1865)のイギリス留学に関する経緯と修学状況、及び帰国後の動向に関する実態解明》 慶応元年(1865)4月、長州藩は、西洋兵学の修業とヨーロッパの事情探索のため、南貞助・山崎小三郎・竹田庸次郎の3人に、2年間のイギリス留学を許可した。次年度の研究では、長州藩側の1次史料を駆使し、3人の留学が実現するまでの経緯と、藩庁中枢部における支援の実態を解明するとともに、帰国後、藩庁政府員の全員出席の下で行われた留学報告会に注目し、留学生がもたらした海外情報の内容と修学状況の実際を明らかにする。 (2)《 慶応3年(1867)のイギリス留学とオランダ留学に関する経緯と修学状況、及び近代日本建設への関与に関する実態解明》 長州藩は、慶応3年(1867)3月、毛利幾之進・鈴尾五郎・河瀬安四郎の3人をイギリスへ、同年7月には、河北義二郎・天野清三郎・飯田吉次郎の3人をイギリス・オランダへと留学させることを決定した。留学生の在留期間は、4年から6年と区々である。次年度の研究では、長州藩側の1次史料を駆使することで、留学生の派遣にあたり、これを積極的に推進した桂小五郎(木戸孝允)と広沢兵助(広沢眞臣)の動向を明らかにするとともに、留学生の修学内容や、彼らがテクノクラートとして近代日本の建設に果たした役割などについても、実相を究明する。
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