2020 Fiscal Year Annual Research Report
The Research of the Concord and Conflict Appear in the Ideal of Manchukuo and Colonial Taiwan Under Japanese Rule
Project/Area Number |
17K13341
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Research Institution | Yamagata University |
Principal Investigator |
許 時嘉 山形大学, 人文社会科学部, 准教授 (10709158)
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Project Period (FY) |
2017-04-01 – 2021-03-31
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Keywords | アジア主義 / 籾山衣洲 / 寺西秀武 / 植民地台湾 |
Outline of Annual Research Achievements |
今年度は、繰越予算を利用して海外資料を調査する予定がコロナウィルスの影響によって難航していたので、研究方向を修正し、1920年代に流行っていた「日中親善の架け橋としての台湾人」という言説の系譜を辿り、アジア主義者と関連者たちの多様性を分析することにした。 「日中親善」というスローガンは、最初日本人アジア主義者の間に現れ、その後、1898年に荒尾精の台湾滞在により台湾人に植民地経営の協力を宣伝する内容として登場し、それ以降、台湾人の政治権力要求の場面に活用されたことは前年度までの研究において明らかになった。一方、アジア主義という思想は一枚岩の存在ではない。よって、研究論文①は1900年代において日本人アジア主義者内部に潜んでいる多様性を、同時代の黒龍会会報や『東亞月報』の記事内容と1905年から1910年にかけて清国で活躍していた籾山衣洲の事例に即して分析を行なった。衣洲の交友関係から分かるように、当時職場の関係者には大陸浪人やアジア主義の論者が多かったが、衣洲本人はアジア主義者ではなく、アジア主義支持者であることさえ言い難い。例えば、保定時代に家族ぐるみの付き合いで衣洲と親交を続けた寺西秀武が陸軍出身でシナ通として有名だった。一方、寺西との交友関係が親密だった衣洲の日記や著作、遺稿集を分析している限り、衣洲には黒龍会関係者に共通する「志士」的な言説は一切見られておらず、むしろ政治イデオロギーと一線を画し、文学者としての顔が際立っているのが興味深い。その特徴は遺稿集の「氷壺軒筆記」で強く見受けられる。中には清朝皇室の退廃を批判する内容がある一方、その内容はあくまでも事実報道のレベルにとどまっており、同時代黒龍会の浪人志士のようにすぐさま大陸経営の積極的な対策建言や抱負心と結びついてはいない。衣洲の事例は清末中国で活躍している日本人団体内部の多様性と「個」の存在を示唆している。
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