2017 Fiscal Year Research-status Report
Project/Area Number |
17K13426
|
Research Institution | University of Shizuoka |
Principal Investigator |
浅間 哲平 静岡県立大学, 国際関係学部, 講師 (00735475)
|
Project Period (FY) |
2017-04-01 – 2021-03-31
|
Keywords | プルースト / エミール・マール |
Outline of Annual Research Achievements |
マルセル・プルースト(1871-1922)が美術館での仕事を探した 1893 年は、フランスの美術史学上の大きな転換点であった。この点を踏まえ、本研究はまず以下のような時代区分を設定することから始めた。 フランスの高等教育における美術史の発展は三つの時期に分けられる。第一期は 1863 年のニューヴェルケルク(1811-1892)による美術学校(エコール・デ・ボザール)の制度改革に始まり、1893 年のソルボンヌ大学における「美術史」の講座設置までである。プルーストは、この学問としての美術の勃興と時を同じくして美術館での学芸員の職を目指したことになる。1893 年以前の大学では芸術についての専門的な教育を受けたくとも受けることができなかったのだ。この年、ソルボンヌで開講されたのは古代と近代の美術史であったが、中世美術史の講義が正式に誕生するのが 1913年で、ここまでが第二期である。こうして大学における美術史が教育制度として完成した。ソルボンヌ大学における中世美術史の開講に大きな役割を果たしたのが、エミール・マール(1862-1954)とその博士論文『フランス十三世紀の宗教芸術』(1898)である。こうして第三共和政が幕を閉じる 1940 年までの間、大学教育・研究における美術史学の知見が発展していくことになり、まさしくその間にプルーストの『失われた時を求めて』(1913-1927)が発表されたことになる。 プルーストは、美術史学が制度として成立する三つの時期すべてを経験した。この点を踏まえると、その複雑な事情がプルーストの美術に対する関わり方に反映されていると考えられる。 以上のような考えから、プルーストが関係した美術史家との交流に着目することにした。
|
Current Status of Research Progress |
Current Status of Research Progress
2: Research has progressed on the whole more than it was originally planned.
Reason
本研究は上記の三つの時期をジャン=ルイ・ヴォードワイエ、エミール・マール、バーナード・ベレンソンに代表させることで具体的な調査を進めることとし、プルーストの書簡中でのそれぞれの美術史家についての言及をすべて洗いだした。 一人目のジャン=ルイ・ヴォードワイエ(1883-1963)は、大学よりも早く1882年に美術館職員養成を目的に創設されたルーヴル美術学校に学んだ。研究者の間では、1921 年、プルーストが死の直前に訪れた「オランダ絵画」展を紹介した記事で知られる。プルーストは『失われた時を求めて』で画家ベルゴットの死の場面にこの記事を利用することになる。 二人目のエミール・マール(1862-1954)が『十三世紀フランスの宗教芸術』を出版した一年後にあたる1899 年に、既にプルーストはこの著作に関心を示した。つまり、大学における美術史学の生成とともに、マールに接近したことになる。プルーストがこの著作を手元においたことは確実で、その記述は小説中の教会建築の描写にそのまま利用されている。 三人目のバーナード・ベレンソン(1865-1959)はアメリカで大学を出て、イタリアに渡りジョヴァンニ・モレッリに師事するというように上の二人よりも成熟した段階の美術史学に接した。有名なモレッリ法は、意味を欠いた細部に画家の特徴が表れるとし、描かれた人物の部位の体系化により制作者を特定するものである。美術史学が伝記ではなく作品そのものを対象とすることを可能にしたこの知見により、ベレンソンは『ルネサンスのイタリア画家』(1952)を著わした。 美術史学の成立期を代表するような三人の美術史家がプルーストに与えた影響について調査し終えることができた。以上の理由から、研究は順調に進展している。
|
Strategy for Future Research Activity |
今後は、まずプルーストがどのような美術コレクションに足を運んでいたのか、書簡やカタログから明らかにする。 対象とするのは、印象派の支持者デュラン=リュエル(1831-1922)とそのライバルだったジョルジュ・プティ(1856-1920)である。これらの画廊の展覧会に作家が通っていたことは書簡から明らかであり、「ジョルジュ・プティ画廊」と題された論考もあるのだが、この点についての網羅的な研究はまだない。こういった画廊に対しては昨今の美術史学が成果を挙げているのは周知の通りである。一例をあげると、Pierre Sanchez によってプティ画廊の展覧会と展示作品はカタログ化された。あるいは、デュラン=リュエルの全体像を捉える初めての展覧会が、2015 年に開かれた。こうした知見を利用しながら、プルーストがこれらの画廊から得た知識を明らかにすることにしたい。 本研究は、また、プルーストが頼ったもう一人のコレクターとしてシャルル・エフルッシ(1849-1905)を対象とする。この蒐集家の姿がルノワールの絵画に描きこまれているとプルーストが指摘していることから、モネ、マネなどの支持者としての姿が特に研究者の注目をひいてきた。実際にエフルッシ所蔵のモネについて言及する文書も残っているので、プルーストがこの人物のコレクションを見ていたのは事実だろう。しかし、本研究が注目したいのは、エフルッシの『ガゼット・デ・ボ・ザール』の編者としての活動である。プルーストも投稿したこの美術雑誌の編纂に携わったエフルッシの事務所には、1859 年から続く雑誌のバックナンバーとそこに掲載された版画があったとプルースト自身が証言している。絵画と版画のコレクションから作家はなにを学んだかを調査することとしたい。
|