Co-Investigator(Kenkyū-buntansha) |
久保 亨 信州大学, 人文学部, 教授 (10143520)
水羽 信男 広島大学, 大学院・総合科学研究科, 教授 (50229712)
川尻 文彦 帝塚山学院大学, 人間文化学部, 准教授 (20299001)
中村 元哉 南山大学, 外国語学部, 准教授 (80454403)
竹元 規人 福岡教育大学, 教育学部, 講師 (80452704)
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Research Abstract |
これまで,中国の「自由」や「リベラリズム」が語られる際,そこには次の二つのパターンを両極とするある種のステレオタイプが見え隠れしてきた。(1)自由の概念やリベラリズムを西洋由来の思想と見なし,中国におけるその「欠如」「排除」や「挫折」「歪曲」を指摘するもの。集団的権利の個人的権利に対する優越という図式も,このバリエーションと見なしうる。(2)中国の歴史には独自の価値と発展パターンがあり,西洋的バイアスを排して,内在的,共感的な立場から,「自由」な「主体」形成の特質が見いだされなければならないというもの。この見方では,中国の歴史や思想における異,西洋的な個性に関心が払われ,いわば総体的な「文明の視座」から「近代」「西洋」の諸価値が相対化される。 我われは,この両極のいずれにも自己同定しがたいという問題意識から,この一年間研究活動をおこなってきた。すなわち,我われが構築しようとした方法論とは,次のようなものである。中国が近代世界に参入する過程で「自由」がはじめて他律的に問われるようになったという点で,(1)にはある程度共感するが,「自由」の有無や「市民社会」との距離を以て中国を裁断することには賛同しない。しかし,だからといって,(2)の立場にも安住しない。たしかに,自由と統制,欲望と秩序,権力と正義といった問題群に対する思考や自省の経験が「西洋」の独占物ではないという点で,(2)の立場には大いに共感する。けれども,中国の歴史を横軸(共時的構造)に沿ってみた場合,とりわけ現代という時代にあって,「中国」の「リベラリズム」という主語が,前提抜きに成立するわけではない。こうした方法論を初歩的に構築しできた点こそが,我われの初年度の最大の成果である。(→その初歩的な実践は「研究発表」欄に記載した研究成果を参照のこと)。
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