Research Abstract |
1955年の日米原子力協定の締結過程については,外務史料館で公開された日本側資料と,米国公文書館などで公開されたアメリカ側資料とによって,その詳細が明らかになった.とくに日米両政府が,当時,日本学術会議が掲げた原子力三原則を,当初,日米協定と両立できないと見ていたこと,同原則の推進に積極的であった民主主義科学者協会(民科)に対して,日米両政府ともに警戒感を持っていたことが明らかにされた. 同年に成立した原子力基本法に関しては,学術会議内の原子力問題委員会が,1954年の段階で,同法の設置を政府に勧告する準備を進め,秋の総会で政府に求める提案を行ったものの,採択に至らなかった経緯を,学術会議図書館の資料,当時の学術会議会員関係者の資料から分析した結果,その主な理由が,平和憲法の下で再軍備を始めていた当時の保守政権(吉田内閣)に対して,平和目的に限定する国内法の実現を期待することはできないという懸念であったことが明らかにされた. 韓国については,特に20年度末に開催された日韓核問題国際シンポジウムにおいて,戦後,短い期間,日本統治時代から水力発電が盛んであった北朝鮮から,電力が不足していた韓国へ電力送電が行われていたものの,朝鮮戦争の時期にそれが絶たれ,韓国は米国の援助の下で原子力発電に着手したこと,朴政権下で秘密裏に核兵器開発が目指されていたことなどが明らかにされた.また,韓国では,広島と長崎への原爆投下が朝鮮半島の解放と結び付けられて理解され,さらに朝鮮戦争の時期から今日まで「北」からの「侵入」を抑止する手段として核兵器が捉えられ,核兵器に対する批判的な世論が形成されなかったこと,その結果,韓国の広島,長崎原爆の被爆者への一般国民の理解が進んでいないことが明らかにされた.
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