Research Abstract |
本年度は近世後期(江戸時代後半)の新潟が抱えていた課題と,その解決に取り組んだ人物に関する教育内容開発を主に行った。具体的には,明和騒動で活躍した涌井藤四郎と,初代新潟奉行として活躍した川村修就(かわむらなかたか)に関する教育内容開発に務めた。涌井藤四郎については,新潟市立上所小学校で行われた先行授業実践研究を学部の授業で学生・院生と共に分析し,その改善・改良に努めた。川村修就については,新潟市立白新中学校で行われた公開研究授業での扱いを同じく学生・院生と共に分析し,それを発展させた指導案を作成した。さらに,作成した指導案を,平成21年2月26日(木)に新潟大学教育学部附属中学校3年3組において研究教育実習の一環として2時間分を試行し,生徒の興味関心と深い思考を導くことに成果をあげた。 この指導案の特質と意義は,新潟における川村の取り組みを,グローバルな観点から考察させることを可能にしている点である。開発した教育内容としては,以下のような点が重要である。すなわち,19世紀前半の新潟は,東アジアで展開された国際的貿易の結節点であった。国際的貿易とは,清,琉球王国,薩摩藩,蝦夷地を結ぶ大規模で広範囲なものであり,それは「鎖国」体制下では「抜け荷(密貿易)」であった。川村は,この密貿易を取り締まる役割を担わされていた。しかし,彼が報告した「北越秘説」における「抜け荷」の事例は氷山の一角にすぎなかった。薩摩藩は,調所広郷の指導で数百万両にのぼる貿易収入を獲得し,倒幕のための経済的実力を貯えることができた。新潟湊も「抜け荷」に関与した高橋屋や当銀屋などの豪商が繁栄を謳歌した。日米修好通商条約に先立つ1856年,当時長崎奉行だった川村修就は,老中阿部正弘に対して開国貿易を進言している。最前線の現場の高級官僚として,川村は,開国貿易による富国強兵政策が不可避な時代となったことを認識していたのではないかと考えられる。しかし,皮肉にも開国は,国際的貿易港としての新潟の地位を,横浜と神戸に奪われるという結果を導いた。以上のような内容をつかませる教材開発を実施した。
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