2022 Fiscal Year Research-status Report
植民地朝鮮における言語ナショナリズムの展開-大イ宗教と朝鮮語学会との関係を中心に
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20K01008
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Research Institution | Ritsumeikan University |
Principal Investigator |
佐々 充昭 立命館大学, 文学部, 教授 (50411137)
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Project Period (FY) |
2020-04-01 – 2024-03-31
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Keywords | 檀君教イ布明書 / 大イ宗教 / 南道本司 / 羅喆 / 周時経 / 朝鮮語学会 / 朝鮮光文会 / 言語ナショナリズム |
Outline of Annual Research Achievements |
今年度は主に『歴代韓国文法大系』(金敏洙、高永根編)に収録されている諸資料の調査を行い、朝鮮人言語学者と大イ宗教との関わりついて、以下の事実を明らかにした。周時経は旧韓末期における尚洞青年学院と1910年代における朝鮮光文会を拠点として朝鮮語の啓蒙活動を行った。1910年に大イ宗教と教名改称されて以降、大イ宗教の国内支部であった南道本司には、周時経・李奎栄・金木斗奉・柳瑾ら朝鮮人言語学者が所属し、朝鮮光文会の学術活動にも関与した。1921年に朝鮮語学会の前身である朝鮮語研究会が組織されたが、同会でも大イ宗教南道本司の信徒が主力会員となった。1926年に朝鮮語研究会が推進した「カギャの日(後の「ハングルの日」)」は、1910年代における朝鮮光文会の朝鮮語辞典『マルモイ(言葉集め)』編纂事業の中で、大イ宗教徒がすでに萌芽的な提唱を行っていたものである。1928年に南道本司から刊行された総合雑誌『偉大な光(ハンビッ)』でも「カギャの日(後の「ハングルの日」)」の制定が唱道された。これらの事実については、次年度において論文として公開する予定である。 その他、『原典朝鮮近代思想史』第4巻と第5巻の中で宗教思想分野を担当し、朝鮮語で書かれた宗教関連史料を日本語に翻訳する作業を行った。この作業は、植民地期朝鮮における思想界全体の動向を探るための基礎的研究となった。特に第4巻では、大イ宗教の創設時に発布された羅喆「檀君教イ布明書」の日本語翻訳と解題を行った。また今年度の後半はコロナ禍が沈静化したために、韓国での資料調査を行うことができた。韓国国立国会図書館と国立中央図書館において朝鮮人言語学者や朝鮮語学会に関する新たな資料を入手した。
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Current Status of Research Progress |
Current Status of Research Progress
3: Progress in research has been slightly delayed.
Reason
今年度までの研究を通じて、朝鮮語学会が設立されるまでの歴史的経緯について把握をすることができたが、研究内容を論文として公開するまでには至っていない。朝鮮語学会の設立経緯は以下のとおりである。朝鮮語学会の歴史的淵源は、『独立新聞』国文版の構成員をつとめた周時経が1896年に組織した国文同式会にある。1899年に『独立新聞』が廃刊となったために、同会は解散となった。その後、周時経は1904年から尚洞青年学院の朝鮮語講師を担当し、尚洞青年学院の中に設けられた夏期国語講習所の卒業生や有志を集めて、1908年に国語研究学会を結成した。 1910年の韓国併合を前後する時期に、周時経は大イ宗教に入信した。入信の理由は、言語研究を通じた民族独立運動を行うためであった。併合後も、周時経が組織した朝鮮語の研究学会は継続していくが、その際、大イ宗教と密接な関連を持つことになった。この研究学会は、1911年に「朝鮮言文会(ペダルマルグルモドゥム)」、さらに1913年に「ハングルモ」と会の名称を変えていった。この時に採用された「ペダル(倍達)」という名称は大イ宗教の檀君ナショナリズムに由来するものであった。また「ハングル」という名称も、大イ宗教徒が主力メンバーとなった朝鮮光文会の活動の中で、崔南善らと共に提唱されたものであった。周時経は1914年に死去するが、周時経の遺志を継ぐ弟子たちは同会を基盤として、1921年に朝鮮語研究会を組織し、それを改称して1931年に朝鮮語学会を発足させた。このような歴史的経緯をもって設立されたために、朝鮮語学会は大イ宗教徒たちが主力会員となり、周時経が提唱した「ハングル学派」を自称していった。以上のような事実をもとに、朝鮮語学会に所属した言語学者の個別研究を行っており、その研究成果については次年度に学術論文として公開する予定である。
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Strategy for Future Research Activity |
次年度は李克魯と大イ宗教の関係について研究を行う。李克魯は1911年に中国へ亡命した後、尹世復(後の大イ宗教第三代教主)が西間島で運営していた東昌学校に立ち寄り、周時経の弟子で大イ宗教徒であった金振から指導を受けて朝鮮語研究を志すようになった。そして、大イ宗教徒のネットワークを通じて上海へ渡り、大イ宗教徒の申圭植が準備した資金でドイツへ留学し、1927年にベルリン大学哲学科を卒業した。その後、朝鮮に帰国し、朝鮮語学会の主力メンバーとなった。李克魯に関しては、韓国で『李克魯全集』全4巻(2019年)が刊行されているが、これに収録されていない資料も存在する。それらの資料を収集・解読しながら、李克魯が大イ宗教に入信した経緯や大イ宗教の檀君ナショナリズムが李克魯の言語思想にどのような形で流入したのか考察する。 その他、朝鮮語学会事件と大イ宗教との関係について研究を行う。1942年10月から翌年4月にかけて朝鮮語学会の会員および関連人物が次々と検挙され、16名が起訴された(「朝鮮語学会事件」)。この時の裁判で治安維持法の内乱罪が適用され、李克魯は最も重い懲役6年を宣告され、崔鉉培は次に重い懲役4年を宣告された。二人はいずれも大イ宗教の幹部であった。この事件とほぼ同時期の1942年11月に、大イ宗教の本部が置かれていた満洲国寧安県東京城で、大イ宗教第三代教主の尹世復をはじめとする教団幹部25名が検挙された。この時の取り調べで10名が獄中死している。大イ宗教ではこの事件を「壬午教変」と称し、この弾圧事件の発端が尹世復に当てた李克魯の手紙にあったとしている。大イ宗教側の記録や朝鮮語学会事件の裁判記録などを精査しながら、朝鮮語学会事件と壬午教変との関連性について明らかにする。
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Causes of Carryover |
COVID-19事態のために、旅費および現地での協力者に対する謝礼金などに差額が生じた。次年度では、今年度予定していて実施できなかった現地調査や資料調査を行っていく。そのために発生する旅費や現地での協力者に対する謝礼金などに経費を支出する予定である。
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