2020 Fiscal Year Research-status Report
イスラーム世界における『医学典範』注釈の展開と意義
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20K21920
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Research Institution | The University of Tokyo |
Principal Investigator |
矢口 直英 東京大学, 大学院人文社会系研究科(文学部), 特任研究員 (30882568)
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Project Period (FY) |
2020-09-11 – 2022-03-31
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Keywords | イスラーム医学 / イスラーム哲学 / イブン・スィーナー / 『医学典範』 / ファフルッディーン・ラーズィー / クトゥブッディーン・シーラーズィー |
Outline of Annual Research Achievements |
昨年度は、イブン・スィーナーの『医学典範』注釈書のうち、ファフルッディーン・ラーズィーによる『医学典範難点注釈』およびクトゥブッディーン・シーラーズィーによる『医学典範総論注釈』の読解と分析を中心的に行った。 まず、ラーズィーがこの注釈を執筆した目的と背景という観点から、『医学典範難点注釈』校訂版を調査した。この著作は『医学典範』の難解な箇所についての問題点を「論題」として整理し、それらの解釈や解決策を与えている。これら論題には哲学的な問題が比較的に多く含まれている。ラーズィー自身が序文で語る内用と照らし合わせると、哲学的な難点の解決がこの著作の主要な関心事であると考えられ、『医学典範』という医学書が哲学的議論を目的として読まれていたことが明らかとなった。 一方、シーラーズィーの『医学典範総論注釈』については、その結末部分を分析した。そこには各種医療倫理書からの長大な引用が並んでおり、この引用部分とそれに続く著者自身の医者に対する助言は同著者の『医学と医者が必要であることの証明』と同一であることが分かった。この結果、この著作の全体がこの注釈からの再編集であるということが確定した。このような医療倫理的内容は、総合的医学書を作成する目的で取り込まれたと考えられる。 また、ラーズィーの『医学典範難点注釈』校訂版と、同著作の写本およびシーラーズィーの『医学典範総論注釈』などの注釈書を比較すると、この校訂版には欠けているが、写本および他の注釈書ではラーズィーの発言として伝わる議論の存在が判明した。以前の研究で示された通り、ラーズィーの注釈は後代の注釈の基礎となっているため、この議論は校訂版で参照された写本伝統から失われたか、他の場所でラーズィーが語ったものと考えられる。したがって、ラーズィーの注釈に関しては今後改めて写本資料を検討する必要があることが分かった。
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Current Status of Research Progress |
Current Status of Research Progress
3: Progress in research has been slightly delayed.
Reason
昨年度は当初の計画通り、イブン・スィーナーの『医学典範』注釈書のうち、ファフルッディーン・ラーズィーおよびクトゥブッディーン・シーラーズィーの注釈の分析を行うことが出来た。これらの注釈については、これまでの研究の過程である程度の写本および校訂版資料が入手できていたためである。しかし、イブン・ナフィースの注釈については、シーラーズィーによって引用されている部分のみを検討できたのみで、それ以外は十分に解釈できたとは言いがたい。この注釈の分析は本年度に重点的に行う予定である。また、『医学典範』注釈書の網羅的リストの作成や、さらなる写本資料の収集については、新型コロナ禍の状況が思ったほどに改善しなかったこともあり、既に写本を入手済みの著作について写本資料を追加で入手できた程度で、当初期待したほどの進展はできていない。 ラーズィーの『医学典範難点注釈』が哲学的な難点の解決を中心に展開されていることに関しては、現時点までの成果として論文のかたちにまとめ、出版予定の論集の原稿として投稿した。ラーズィーの『医学典範難点注釈』校訂版と、同著作の写本資料およびシーラーズィー『医学典範総論注釈』などの注釈書の比較から判明した、校訂版に不在の議論については、その部分の翻刻および翻訳を含む報告を学術紀要に投稿し、出版予定である。 また、シーラーズィーの『医学典範総論注釈』と同著者の『医学と医者が必要であることの証明』との関係について、その一部分の関係については過去に発表済みではあるが、後者の全体が前者からの再編集であることについては改めて発表する予定である。その発表の機会であったシーラーズィー・シンポジウムはトルコにおいて本来2021年5月に開催予定であったが、10月に延期された。この成果については、彼による先代の注釈書や文献の利用についての調査結果を加えて、その発表を準備中である。
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Strategy for Future Research Activity |
今後もイブン・スィーナーの『医学典範』注釈書のうち、ファフルッディーン・ラーズィー、イブン・ナフィース、クトゥブッディーン・シーラーズィーによる注釈書を中心的資料として分析を進める。特に、昨年度で十分に分析ができなかったイブン・ナフィースの注釈を重点的に分析する予定である。ただし、本年度が本研究課題の最終年度であることと、また新型コロナ禍の状況が本年度中に急速に改善する見込みがあると判断できないことから、写本資料の収集およびその他資料の遠方からの収集を適度に留め、入手済みの資料の読解を推進する。 まず、シーラーズィーの『医学典範総論注釈』と『医学と医者が必要であることの証明』の関係に関する発表に、彼による先代の注釈書や文献の利用についての調査結果を盛り込んで、10月のシンポジウムにて発表する。 次に、イブン・ナフィースの注釈を中心に、上記3名の注釈者たちが『医学典範』の記述に関する哲学的問題についてどのような態度を取ったのかという観点から、彼らの議論の特徴を明らかにしていく。これは、昨年度に明らかにしたラーズィーの『医学典範難点注釈』において哲学的議論が中心にあるという特徴と比較して、同様の態度が後代の注釈者に継承されたかどうかを検討していくためである。『医学典範』注釈書の基礎であるラーズィーの注釈は後代の注釈者に影響を与えている可能性が高いため、その影響の程度を確認していく。 最後に、これら注釈者たちの『医学典範』に対する態度の特徴から、彼らが『医学典範』をどのように評価していたかを読み解いていく。そして、この分析を通じて、イブン・スィーナー以後の医学者たちによる『医学典範』の受容の実態を明らかにしていく。これらの調査結果を本研究の成果として、論文のかたちで発表する。
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