2012 Fiscal Year Annual Research Report
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21520027
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Research Institution | Teikyo University |
Principal Investigator |
冲永 荘八 帝京大学, 文学部, 教授 (80269422)
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Project Period (FY) |
2009-04-01 – 2014-03-31
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Keywords | 決定論 / 自由 / 場所 / 形而上学 / 物理主義 / クオリア / 因果 / 規則 |
Research Abstract |
24年度は自由と決定についての形而上学的問題を扱った。決定論を批判的に考察するにあたって特に注目したのが、因果律を無前提とするのではなく、作られたものだとする思想である。因果律が習慣によって作られたとするヒュームの考えがあるが、彼が注目したものに、出来事には原因があるという因果の法則である。この法則はアプリオリなのか、経験則なのか、という問いは、宇宙の始まりのさらに原因を探ることが、有意味な問いなのか否か、という問題に直結した。因果はアプリオリだと見なすためには、因果の形式自体を創り出す者の習慣形成にも必ず原因があり、したがって因果律の成立事態も因果的に一貫しているという主張があり得る。他方で、因果法則自体が因果的に作られたとするならば、ある主張の正しさをその外部から保証すべきものが、その主張自身でしかないことになり、結局その主張は無根拠状態に置かれるしかない、ということもできる。もし後者が妥当であれば、宇宙の成立以前を、宇宙成立後の因果関係によって探ろうとすることは背理となる。 こうした宇宙内部とその外部とを、因果関係という論理形式とその外部、という対比で考えることを試みた。たとえばウィトゲンシュタインの「規則」の最根源としての「岩盤」以前は、「規則」内部から見ると、何かわからないものがある、というものでさえない。そこへの問いは端的に無意味なのである。同様に、西田の矛盾的自己同一においても、矛盾するもの同士の比較や対照は端的に不可能であり、それを論理的に比較しようとするゆえに、形而上学的な問題が生じた。こうしたことから、因果にもとづいた決定論も、一種の根拠なき規則内部の事柄と見なし、宇宙の実相をそうした規則以前の次元としてとらえることを試みた。決定論的世界は、それ自体がすでに実在の限定であるのに、実在そのものだと考えられることで問題を生じさせていると考えたからである。
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Current Status of Research Progress |
Current Status of Research Progress
2: Research has progressed on the whole more than it was originally planned.
Reason
本研究の特色は、物理主義的に心を客観的する傾向の強い近年の状況の中で、この客観化を実在に対する論理的な限定ととらえる点にある。それは当初、クオリアや自我といった、客観性や物質性に組み込まれない主観的なものの、存在論的な位置を定めようとする試みだった。しかしそれは、物理主義の立場をとると避けえない決定論をどう扱うか、という問題にとりくむ必要を生じさせた。決定論は、主観的な存在を認めたとしても、自分が自発的に行動していると思っているのは幻影である、という論法で存続可能であり、クオリアより一層解決困難な点を含んでいるからである。 こうした問題が生じたために、決定論の立場を、知の根本構造との関係で探求する必要が生じた。決定論が実在の限定によって成立する論理的な形式の世界であるとすれば、本研究当初からの射程に入る。しかし、決定論と因果性とが、論理の形式なのか、それとも実在の姿なのかを、当初の予定以上に具体的に取り組む必要は生じた。そこで、理論上決定論的な未来予測ができない実例を取り上げ、考察した。これが自己予測の不可能性で、それは主観性が世界に含まれるがゆえの、決定論的世界の亀裂である。 さらに、九鬼の宇宙の始原としての「離接的偶然」を取り上げ、この偶然の外部は、離接肢内部の系列の延長上に位置するのではなく、その系列が端的に途切れることを見た。それは宇宙内部を因果が支配するとしても、その外部は因果性という形式ではとらえられないという、決定論の亀裂の具体例である。 こうして、三次元的立体としての実在の、二次元平面への射影としての決定論的世界という比喩で、決定論を位置づけようとした。この試みはまだ試行段階だが、自己予測や宇宙の始原が決定論の亀裂や限界であることから、論理で把握されることが実在の限定であるという本研究の構想は、決定論の少なくとも一部の事象についても妥当することは示せた。
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Strategy for Future Research Activity |
25年度は、物質が実在でもなく、精神が実在でもない、という立場のまとめを行う。物質と精神をめぐる形而上学的問題はどちらかに決着がつくのではなく、この問題自体が解消される次元がある、と考えるのが本研究のねらいであった。たとえば自由か決定かという二分法もしかりである。しかしどちらの立場にも、立論の前提としての形式が必要であり、その無根拠を呈示するのが本研究の課題であった。 本年の課題は、決定論と自由との対立以前とは何かである。そこで、因果的決定論でさえ、思考形式の産物にすぎないことをいかに示すかが問題となる。これについて、合理的思考が因果の形式に従う限り、その思考によってこの形式以前に遡ることは不可能であることに着目したい。そこでこの形式の形成過程に関して、因果に従った思考を生じさせる行為の存在論的位置が問題となる。この行為は因果以前であるため、自由としても決定としても分類不可能である。 これを、九鬼の「離接的偶然」が因果と無関係に成立すること、そして西田の行為的直観の無根拠性を通じて考察したい。両者ともあらかじめの規則に従うのではない、非言語的で身体的な状況的行為であるが、特に行為的直観は絶対無などの形而上学的な領域とも接し、私たちの述語づけや思考の限界に深く入り込んでいる。 確かに、因果律のようにアプリオリに思われる枠組みをもこうした状況的行為として扱ってよいかが問題となる。私たちは根拠なき状況的行為を想像できるが、因果の成立しない状況は理解できないからである。しかし、唯物論において必然となる決定論は、決定論における因果性の枠組み自体がどのように因果的に成立したかを説明しない。この成立に関する思考は、必ず一歩この決定性の外に出てしまうからである。ここでも、決定性と自由との分離以前へと立ち返る必要が生じる。そうした領域から世界を再構成する立場として西田の場所論を再活用する。
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Research Products
(6 results)