2021 Fiscal Year Annual Research Report
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21J21326
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Allocation Type | Single-year Grants |
Research Institution | The University of Tokyo |
Principal Investigator |
村瀬 空 東京大学, 人文社会系研究科, 特別研究員(DC1)
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Project Period (FY) |
2021-04-28 – 2024-03-31
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Keywords | 中世和歌 / 為家家百首 / 日吉社撰歌合 / 奉納和歌 / 御子左家 / 藤原為家 / 藤原秀能 / 承久の乱 |
Outline of Annual Research Achievements |
承久の乱後の和歌文学の展開を明らかにするための足掛かりとして、本年度は主に『為家家百首』と『日吉社撰歌合』の研究を行った。『為家家百首』(散佚)は、寛喜元年(1229)頃に藤原為家が主催した百首歌で、藤原家隆、藤原秀能(如願法師)ら25名の歌人が参加、同時代では最大規模の和歌行事である。『日吉社撰歌合』は、『為家家百首』から100首を撰び歌合形式としたもので、寛喜四年(1232)三月に日吉社に奉納された。為家のような歌道家の歌人が大規模な家の百首を催した歴史的先例はなく、これらの和歌行事の性格を究明することの意義は大きい。本研究では、行事に関連する断片的な情報を諸資料より集成・検討することで、従来不明な点の多かった作品の成立過程、及び行事を主催した為家の動機を解明することを目指した。その結果、為家は九条道家の復権など、当時の社会情勢を強く意識しながら和歌活動を展開していたことが明らかになった。また、作品の内容・構成からは、為家の「家」意識の強さや、後年の著作『為家古今序抄』にも通じる政教的な和歌観を読み取ることができる。以上の成果は、拙稿「『為家家百首』と『日吉社撰歌合』の成立」(『和歌文学研究』124号、2022年6月)に掲載予定である。 さらに本年度は、承久の乱後も後鳥羽院を慕い続けた院近習の歌人・藤原秀能の和歌活動についての研究も進めた。乱後の秀能は、後鳥羽院周辺以外に、西園寺家や御家人ら鎌倉幕府に近い人々とも親交をもった。多様な人々との交流の中で披露された秀能の歌の表現を分析していくと、詠歌の場や享受者に対する彼の配慮の深さが明らかになる。従来、隠岐の後鳥羽院を思慕する歌など、詠歌の述懐性の強さが注目されてきた乱後の秀能だが、彼の述懐歌における感情表出のあり方は、詠歌の場に応じて質的な相違が見られるのである。上記の研究成果は現在、論文化を進めている。
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Current Status of Research Progress |
Current Status of Research Progress
2: Research has progressed on the whole more than it was originally planned.
Reason
本研究の目的は、承久の乱後およそ20年間の和歌文学について、その文学史的位置付けを明らかにすることにある。本年度は、従来あまり研究が進んでいなかった『為家家百首』『日吉社撰歌合』に焦点を当てることで、上記の目的に適う一定の研究成果をあげることができたと考えている。 本年度の研究計画のひとつに、この時代の和歌に関連する諸資料の集成があった。『為家家百首』『日吉社撰歌合』の研究では、『明月記』等の関係資料から収集した情報が、作品の成立過程の推定に大いに役立った。 一方、当初の計画では、本年度は、配所の上皇の和歌活動に関する研究も合わせて進めていく予定であった。しかし、上記の百首歌や撰歌合の研究を進めるうちに、藤原為家・藤原家隆・藤原秀能といった都の歌人達の和歌活動に関して、なおも明らかにすべき点が多いことに気づかされた。そのため、本年度は、都の歌人達、特に藤原為家と藤原秀能の和歌活動の研究に注力した。当初の研究計画を変更する形にはなったが、『為家家百首』と『日吉社撰歌合』の研究成果については学会発表を行い、発表内容に基づく論文を査読誌に投稿することができた。また、藤原秀能の研究も着実に進んでいる。よって研究は「おおむね順調に進展している」と考えている。
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Strategy for Future Research Activity |
当初の計画では、2022年度は配所の上皇の和歌と、都で後鳥羽院を思慕し続けた藤原家隆の研究を進める予定であった。しかし、都の歌人達の活動について明らかにすべき点が多いことが分かったので、2022年度は藤原家隆と藤原秀能の研究を中心に進めたいと考えている。両者は共に、承久の乱後も後鳥羽院を慕い続けた歌人で、隠岐に届けることを前提に制作したと思われる定数歌も伝存している。家隆の「日吉社五十首」、秀能の「詠百首和歌」がそれである。これらの定数歌の表現については、先行歌からの表現摂取のあり方などに関して新見を提示できると見通している。今後、さらなる考察を進めたい。 また、乱後の秀能については、後鳥羽院を思慕する述懐性の強い歌を数多く詠んだ一方で、西園寺家や御家人といった鎌倉幕府に近い人物とも親交が深かったことが知られている。しかし、その交流の実態は未だ明らかでないことも多く、詠歌の内容を詳しく分析することで、新見を提示できるのではないかと考えている。特に注目したいのが、乱後の時代を生きる心境を詠んだ秀能の述懐歌とその詠歌の場の関係である。承久の乱を想起させる秀能の述懐歌が、彼と親交のある人々の間でいかように享受されていったのか、解明していきたい。
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