2015 Fiscal Year Annual Research Report
中国仏教美術古典様式完成時期としての「則天武后期(655~705)」の確立
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25370127
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Research Institution | University of Tsukuba |
Principal Investigator |
八木 春生 筑波大学, 芸術系, 教授 (90261792)
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Co-Investigator(Kenkyū-buntansha) |
小澤 正人 成城大学, 文芸学部, 教授 (00257205)
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Project Period (FY) |
2013-04-01 – 2016-03-31
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Keywords | 則天武后期仏教造像 / 初唐仏教造像 / 盛唐仏教造像 / 敦煌莫高窟唐前期造像 / 龍門石窟唐前期造像 / 西安宝慶寺塔造像龕 / 山東唐前期造像 / 天龍山石窟唐前期造像 |
Outline of Annual Research Achievements |
天龍山石窟第6窟および第21窟の造営時期は、則天武后期終了後、700年代後半から710年代前半にかけてであり、その時期に中国仏教美術史上稀に見る高水準の写実的な人体表現が、各地で流行し始めたことが知られる。則天武后の退位により、各地で仏教ブームの勢いが急激に衰えると、則天武后期ほどではないにせよ造像活動が継続し、結果としてその時期もっとも優れていると考えられた西安地方の造像様式、形式が、各地で採用、模倣されるようになった。だが、柔らかさだけでなく重さを感じさせる肉の表現が、この時期西安以外の地方でも必要とされたことは重要である。つまり、西安の流行形式であるとともに、実在感を持たせることが人々にとっての真のリアリティーであり、重視されたのであろう。玄奘や王玄策によって起きたインドブームを契機にもたらされた、それまでに見られなかった如来の太腿を隠すこと無く表す試みは、確かに則天武后期以降の造像様式、形式の原点となったと思われる。しかしインドでは如来像の胸の柔らかでふくよかな筋肉表現は好まれなかった。これに対して、則天武后期終了後、堰を切ったように、それまで存在していたと考えられるある種の「制限」がはずれ、限界まで押し進められた実在感を持つ表現が出現、流行したのは、如来像のモデルが理想的といえども、私たちと同じ人間となったことを示している。 以上より、則天武后期は初唐最末期に属し、盛唐開始は則天武后退位以後の時期としてよいと結論される。敦煌莫高窟の西方浄土変相図にしても、天龍山石窟第6窟、第21窟などの如来倚坐像にしても、おそらくは手本となる作品が西安に存在していた。そうであれば、西安からの情報を忠実にコピーすることこそ、真のリアリティーあるいは実在性の獲得であるとする共通認識が存在し、それと絵画および彫刻技術の急激な発達が、盛唐仏教美術形成の重要な要素であったと考えられる。
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Research Products
(8 results)