Research Abstract |
第2次世界大戦前の「帰国子女教育」に関係した人々, すなわち元・日本人学校教師11名, 元・日本人学校生徒9名, 啓明学園教師2名, 成蹊学園教師1名, 北野寮教師1名, イギリスからの「帰国子女」1名, 親2名, 日本人会関係者1名等にインタヴィユし, 資料を蒐集するとともに, 現在の教育庁, 教育委員会を7ヵ所訪れ, 当時の資料を調査した. また, 「帰国子女」の「受け入れ校」も訪れた. この中で, 教育庁・教育委員会では資料が殆どなく, 今後は, 当時の「帰国子女」を通して, 「受け入れ校」そして教育庁教育委員会へと追録してゆくのが効果的と思われるが, さらに検討したい. 今年度に得られた知見は次の通りである. 1.わが国最初の「帰国子女学級」は, 大正9(1920)年, 成蹊小学校に特設された「和組」である. 担当教師1名, 生徒7名で出発した. この「和組」は, 大正13(1924)年, 当校の吉祥寺移転とともに廃止された. 2.しかし, 昭和10(1935)年, 再び成蹊小学校に「操要学級」という帰国子女のための学級が設置され, 菅野尚明(元・啓明学園紅潮)が担当した. 3.ところが, 「進学問題」等による昭和15(1940)年, 廃止のやむなきに至り, そこに我子をあずけていた, 三井高維が啓明学園を創設し, 帰国子女のための学校が誕生したのである. 4.一方, 昭和7(1932)年には「海外教育協会」が, 神奈川県川崎市に設けられ, 在外子弟の〓育にあたった. 5.昭和16(1941)年には, 神戸市に「北野寮」が開かれ, 上海・フィリピン・インドネシアからの「帰国子女」の進学者に施設を提供した. インドネシアからの生徒は, 約15名全員が混血児童であった. 6.また, 昭和14(1939)年頃, 元・スラバヤ日本人学校長が, 私宅に「帰国子女」5名をあずかったこともあり. 7.昭和19(1944)年には, 大東豆省のはからいで, フィリピンから102名の進学希望生徒が「帰国」した.
|