Research Abstract |
古代朝鮮の城郭は, 漢が朝鮮に四郡を置き, 各地に県城を作ったことからはじまる. 漢代城郭の特徴は, 冲積平野など平坦な地に, 版築による堅固な土塁でかこんだものであった. その形態は, 住民の居住地を含めた集落全体を防衛する外郭と, 宮殿や官衛など支配者の施設を特別に保護する内城とから成り立っている. 朝鮮諸国は, 中国の県城を奪って, これを使用するとともに, 強力な侵略軍から住民を守るために, 朝鮮独特の山城を作った. 古代朝鮮の城郭の特徴は, 内城が殆んど発達せず, 外郭が非常に発達したところにある. 日本の城郭は, 7世紀中葉に百済の亡命貴族の指導によるものからはじまるが, これら朝鮮式山城には住民保護の外郭がなく, 官衛防衛の内城的性格が強い. 8世紀の東北地方の官衛は丘上にあって, 土塁や木柵で防禦している. この形式は, 古代朝鮮の平野部にある村落防衛の在城と類似しているが, その機能はいちじるしく異なっている. 朝鮮も日本も, 中世以降の城郭の基本的性格で古代のそれを継承していることが知られた. 次に, 北海道の近世・近代の城郭では, アイヌ族などの小数民族のチャシが, はじめ川を遡る鮭・鱒など魚群探知の生産施設であった. 松前藩などの勢力がこの地方に進出すると, チャシは生産施設から城郭的な機能を持つ施設に変化した. このような変化がどの程度一般化できるか否かは, より詳細な調査にまちたい. 次に, オランダのナルディン城などを模したものとされる函館の五陵閣・四陵閣は, その性格が大きく異なる. 五陵閣は近世城郭と同じく, 封建領主の城の機能しかなく, 市民との関係が断絶している. 四陵閣は戦闘用の小要塞の機能しかない. 朝鮮でも日本でも, 文化交流にあたり文化提供者に重点を置きすぎた従来の考え方に対し, 受容者側の要求がより重視する必要のあることを知ることができた.
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